(問)「果報者」とか、「果報は寝て待て」とか言いますが、これは、偶然宝くじに当たったようなもので、努力しなくてもいいことがあると言うことなのでしょうか。
(答)果報とは何かとのご質問ですが、これは、仏教で言う「因縁」と深いつながりがあります。あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。例えば、花が咲くには、種がなければなりません。それが花の因です。しかし、種があっただけでは、花は咲きません。土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。その結果のことを果報と言います。
さて、因縁の結果である果報は、必ずあらわれます。しかし、何時かは分かりません。花の場合は、時期が決まっていますので、比較的簡単に結果を知ることができますが、人間の行いに関しては、いろいろな条件が絡(から)んでいますので、いつ結果があらわれるか明らかではありません。何十年たっても兆候(ちょうこう)すらあらわれないことだってあります。したがって、思いも寄らないいい結果に恵まれたとしたならば、「運が良かった」と思うことでしょう。まさに果報者です。しかし、その果報がなかなか自分に来なかったとしたら、イライラしますね。ですが、必ずあらわれるのですから、焦らないで待ちましょうと言う意味で「果報は寝て待て」と言うのです。したがって、常日頃、自己を律した行いを積んでいけば、必ずいい果報があるのですから、早く果報を得たいと期待してはいけないのです。果報なんか忘れて日々の行いに勤(いそ)しむ心掛けが大切です。幸運は偶然なのだから、何もしなくても巡り合えると言う考えは、仏教的ではありません。