昔お聞きしました、山田惠諦お座主様のお言葉を思い出します。
「名も知れぬ草だが何かの役に立つから生えている。この世に あるものは、全て価値があるから存在している。
心とは、何に対しても相手の価値を認める気持ち。僧の価値はその支えになることだ。私の場合は信じてただ祈ることが、私の僧としての道だと確信している。」
私達の一生において、人間の命のはかなさと無力さを知らねばなりません。そのことが、苦しく哀しい一生を生き抜く力となるのです。
信仰に無縁な人々の世界では、いつも自分が主役であると自負しています。そして、自分にも他人にも期待し過ぎてしまっています。
「名も知れぬ草だが何かの役に立つから生えている‥‥。」
人間は自然の中で、もっとも脆弱な生き物です。人の苦しく哀しい一生を生き抜くには、人間一人の力はあまりにも弱すぎます。せめて信じて祈ることが、その人生を支えてくれるのです。
ある美術館に次の言葉があります。
「人はカベにぶつかると強くなると思っていた。でも、ぶつかる度にやさしくなった気がする。それが嬉しい、それが有難い。」
伝教大師最澄様の教えは、そんな弱々しい私達にも、知らず知らずの内に大きな力があることを、お示し下さいました。
そして、こんな私達でも信じて祈ることにより、多くの人々の支えになれることを気付かせて下さいました。
祈ること、それは、難しい経典を読誦することだけではありません。先ず、自分を忘れて、自分のことよりも少しでも他の人々のことを思うことです。そんな気持ちを、いつも自分の心の中に懐きながら仏様の前で合掌することです。そして、他の人のために生きることであります。
「この世にあるものは、全て価値があるから存在している。心とはなんに対しても相手の価値を認める気持‥。信じてただ祈ること。」
これが祈りの道であります。
(文・信越教区 布教師会長 小山健英)