天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第88号

美しい対馬の海を取り戻そう
=対馬漂流物被害清掃作業に取り組む=

 一隅を照らす運動の地球救援活動の一環として、去る六月十五日に長崎県対馬市の海岸において漂流物の清掃作業が行われた。一隅を照らす運動総本部(福惠善高総本部長)では、地球環境を悪化させるゴミの増加傾向を踏まえ、ゴミの削減を目ざす取り組みとして今回の清掃作業に取り組んだ。尚、同清掃作業は、九州西教区本部の一隅を照らす運動対馬大会とともに実施された。

 対馬は朝鮮半島と九州の中間に位置するが、近年、その海岸に打ち上げられる漂流物の多さが、社会問題としてクローズアップされてきている。漂流物は主に漁網や発砲スチロール製のウキや韓国などからのゴミだが、時代を反映してプラスチック製品や注射針、薬品用ポリタンクもある。
 清掃作業は十五日午後、厳原町阿連の海岸で行われ、約百五十名が参加した。一時間半かけて大量の漂流物を撤去、半ば砂に埋もれている漁具などは取り去るのに一苦労。参加者はゴミの多さを目の当たりにして、その深刻さを実感した様子であった。
 漂流ゴミは、太平洋海域でも多く、日本発のゴミも大量に見られる。また、近年は医療廃棄物など、永年残存する危険物も増え、ゴミ問題は地球環境規模で取り組まなくてならない問題になっている。
 同運動総本部では、地球救援活動において、ラオスでの学校建設など海外での実績を積んでいるが、今後は環境問題への取り組みとしてこうした清掃活動の国内での実施を考えている。もはや一国段階での取り組みでは成し得なくなっている環境保全運動を、足下から展開することが重要だからだ。
 今回の清掃作業を踏まえて同運動総本部では「伝教大師入唐求法帰還の地である対馬において、九州西教区本部と連携して実施できた。今後も各教区本部のバックアップを受けながら、他地域での清掃活動も考えていきたい」と、地球環境保全に取り組んでいく決意を示している。
 なお、十六日には、九州西教区の檀信徒会総会、山下亮孝祗園寺(佐世保市)住職の講演、伝教大師報恩法要などが行われた。

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 戸津説法 =清原惠光師を説法師に指名=

 去る六月四日に執り行われた長講会において、今年の「戸津説法」の説法師に清原惠光師(延暦寺一山弘法寺住職)が指名された。
 戸津説法は、比叡山麓東南寺で毎年、行われている法華経の説法で、東南寺説法とも呼ばれている。宗祖伝教大師がご両親への追善供養と村民の幸せを願って、この地で説法したのが始まりとされる。
 天台宗の経歴法階の一つで、この説法師を務めると、将来の天台座主への道が開かれることから、「天台座主への登竜門」とも称される。
 師は、昭和八年大津市生まれ。大正大学大学院文学研究科修士課程修了。延暦寺副執行、叡山学院院長、比叡山行院院長、延暦寺執行などの要職を歴任。現在、延暦寺学問所所長、天台宗勧学、叡山学院名誉教授。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

君には、風が見えるのかい?

インドの船頭

 インド北部にガンジス川とヤムナー川が合流する場所があります。ここは、ヒンドゥー教の聖地となっている所です。
 ヒンドゥー教の古典によれば、この合流点に、もう一本の川が流れ込んでいると言われています。サラスワティーという信仰上の川で、実際には存在しませんが、篤い信仰の対象となっているのだそうです。
 北海道大学の中島岳志准教授が、この地を遊覧船で訪れた時のことを新聞に書いていました。
 殆どの乗客は、ヒンドゥー教の巡礼者たちでしたが、その中に一人の西洋人が混じっていました。船頭がサラスワティー川について解説を始めると、その西洋人は「サラスワティー川なんか、どこにも見えないじゃないか。そんな話はインチキだ」と言ったというのです。
 すると船頭は、その西洋人に向かって穏やかに「それなら、君には、風が見えるのかい?」と言ったというのです。
 見えないものは存在しないというのは、いかにも科学的な正論のように聞こえますが、見えるものだけが存在すると割り切る文化は、とても薄っぺらいような気がします。目に見えるものなどは、ごく一部の領域ではないのでしょうか。
 私たちが、相手に「最近、どうしておられますか」と問いかけますと「お陰様で元気です」という返事が返ってきます。お陰様とは「見えない力に守られているお陰で」という意味です。日本人なら誰でもわかります。それが文化です。
 私たちは、目に見えないものによって生かされています。それなら、目に見えない大いなる力や、生かされていることにはっきりと気づくべきです。それが、感謝に繋がり、『忘己利他』の生き方に繋がると思います。
 船頭は「サラスワティー川は、私達の心の中に流れているのです。私は、その存在を全身で感じています」と言ったそうです。

鬼手仏心

負けに不思議なし  天台宗参務財務部長 阿部 昌宏

 
 「負けに不思議の負けなし」は、野村克也元楽天ゴールデンイーグルス監督の名言のように思われていますが、本当は、江戸時代の肥前国平戸藩の第九代藩主であった松浦清(号は静山)の言葉です。 
 「負けに不思議の負けなし」には前の言葉があります。それは「勝ちに不思議の勝ちあり」です。つまり「まぐれ勝ちはある。偶然の負けというものはない」というのです。
 賭け事など偶然が左右する分野では、偶然の勝ちはあります。俗にビギナーズラックというやつです。しかし、それも勝ち続けるなどということはありません。そして、プロと素人との間には「不思議の勝ちも、不思議の負け」もありません。
 私達が、室伏広治にハンマー投げで勝つこともなければ、羽生善治名人が、私たちに不覚をとることもありません。不思議の勝ちや不思議の負けがあるのは、お互いの技倆が切迫している関係の時にだけです。
 ですから、今、自分がいる世界で、あなたが常に勝ち続けているとしても、天狗になるのではなく、その世界が「甘い」からかもしれないと謙虚に考える必要があります。
 一段上のクラスに登れば、コテンパンにやられるかも知れません。逆に、今いる世界で負け続けているのならば、あせるのではなく、自分の実力を認めて、もう一段下のクラスから再スタートすることで自信がつくものです。
 プロの世界では、常に勝ち続ける全勝も、常に負け続ける全敗もありません。実力が伯仲すれば、勝ったり、負けたりが常です。人生も同じだと思います。そして負ける原因の殆どはトレーニング不足と油断です。

仏教の散歩道

「諸法実相」とは・・・

 宮沢賢治(一八九六~一九三三)といえば、誰もがすぐに
 《 雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ》
 の詩を思い浮かべます。もっとも、この詩は、賢治の死後に遺品のトランクの中にあった手帳に書きつけられていたもので、生活信条として彼はこれを書いたようです。
 ところで、フランスのシュールレアリスムの詩を日本に紹介し、昭和の新文学に大きな影響を与えた堀口大学(一八九二~一九八一)に、「自らに」と題する次のような四行詩があります。
 《 雨に日は雨を愛さう。
  風の日は風を好もう。
  晴れた日は散歩をしよう。
  貧しくば心に富まう》
 おもしろいですね。宮沢賢治と堀口大学と、風雨に対する二人の態度はまったく正反対です。
 では、どちらがいいのか? しかし、これは、いい/悪いの問題ではありません。むしろ好き/嫌いの問題です。そして、「おまえはどちらが好きか?」と問われるなら、わたしは大学のほうが好きです。そして、大学のほうが『法華経』の精神に近いと思います。世間一般では、賢治のほうが『法華経』の精神にもとづいていると考えられていますが、わたしはそうは思いません。
 というのは、『法華経』が教えているのは、
 -諸法実相-
 ということで、これは宇宙のあらゆる事物がそれぞれに存在意義を持っているということです。
 優等生だけが存在意義を持っているのではありません。劣等生も劣等生のままで存在意義があるのです。劣等生がいなければ、優等生が存在できないのです。だとすると、仏は劣等生などいないほうがいいと思われるでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。仏は劣等生に対して、「つらいだろうが、どうか劣等生の役割をしてください」と頼んでおられるのです。それが「諸法実相」だと思います。
 だとすると、賢治の「雨ニモマケズ」は、雨はいやなものだけれど、まあ、きょうは雨だから仕方がない、がまんしよう、ということです。
 それは、本当は優等生のほうがいいのだけれども、劣等生になってしまった。それなら仕方がない。劣等生でもがまんするか。そうなります。
 それよりは、劣等生を劣等生のままに肯定しようという「雨の日は雨を愛さう」という大学のほうが、わたしは『法華経』の精神に近いと思います。
 でも、こんなことを言えば、賢治ファンから攻撃されそうです。これはあくまでもわたしの独断と偏見だとしてお許しください。

カット・酒谷 加奈

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