天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第57号

両陛下、延暦寺に行幸啓
開宗1200年の掉尾を飾る大慶事

 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで開催された「第二十七回全国豊かな海づくり大会」にお越しになった天皇皇后両陛下は、十一月十三日、総本山比叡山延暦寺に行幸啓になられた。比叡山への行幸啓は、昭和五十年に昭和天皇皇后両陛下がお立ち寄りになられて以来三十二年ぶりのことで、両陛下の根本中堂や国宝殿への御内覧は初めて。同日、比叡山は大きな慶びに包まれた。

 天皇皇后両陛下は、同日お泊まり所の琵琶湖ホテルを出発され、午前十時二十四分、延暦寺大書院に御着になられた。
 両陛下は、清原惠光延暦寺執行の御先導により、半田孝淳第二百五十六世天台座主猊下、小堀光詮三千院門跡門主、菅原信海妙法院門跡門主、井深觀譲滋賀院門跡門主、叡南覺範毘沙門堂門跡門主、東伏見慈晃青蓮院門跡門主、濱中光礼天台宗宗務総長が大書院前にてお出迎えになる中を(写真左)、大書院旭光之間に進まれた。 
 旭光之間では、半田座主猊下が「私どもは、毎年四月四日から一週間、御修法を厳修して国家の平安と皇室の安泰を御祈願しております」と御挨拶されると、天皇陛下は「大変ご苦労様」とのお言葉をおかけになられた。
 また半田座主猊下は皇后陛下に「皇后陛下におかれましては、多くの人々にお優しいお言葉をおかけくださり、私ども涙が流れるほど嬉しい思いで一杯でございます」と御挨拶されると皇后陛下は、優しく頷かれ「比叡山の紅葉は大変きれいですね」と微笑まれた。
一隅会館前では、奉迎のために登叡した人々や、比叡山幼稚園の園児たちが日の丸の小旗を打ち振って奉迎する。
 両陛下は、旭光之間にて半田座主猊下の御挨拶を受けられたあと、十時四十六分根本中堂に御着になられた。
 そして、森川宏映延暦寺長の御先導により根本中堂内に向かわれた。根本中堂では不滅の法灯や、行幸啓のために御開扉された秘仏の御本尊薬師瑠璃光如来像を御覧になった。 
 両陛下が根本中堂を御内覧になるのは、比叡山の歴史上初めてのことである。時あたかも天台宗開宗千二百年慶讃大法会結願の年であり、比叡山延暦寺にとっても、また天台宗にとっても、宗史に燦然と輝く大慶事となった。
 このあと両陛下は、延暦寺国宝殿において小林隆彰延暦寺長の御先導により、嵯峨天皇宸筆である「光定戒牒」や伝教大師筆による「天台法華宗年分縁起」(いずれも国宝であり今回の行幸啓のため特別公開)、薬師如来像、阿弥陀如来像など、数々の仏像を熱心に御鑑賞になられた。
 そして再び大書院旭光之間にて嘉田由紀子滋賀県知事、出原逸三滋賀県議会議長、安森智司滋賀県警察本部長の御挨拶を受けられた後、半田座主猊下らがお見送りする中を十一時五十二分比叡山を御発になられた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 すべて本来の持ち味をこわさないことが料理の要訣(ようけつ)である。
 これができれば俯仰天地(ふぎょうてんち)に愧(は)ずるなき料理人であり、
 これ以上はないと言える。

北大路魯山人著/「魯山人味道」(中公文庫 )

 書をよくし、画にも、陶器作りにも打ち込む、多芸多才の芸術家であった北大路魯山人。でも何よりも知られているのは、生涯にわたり「美味」を追求したことです。
 家が貧しく、幼い時に養子に出され、丁稚奉公したりと辛酸をなめた少年時代を送っています。
 しかし、その頃から既に、「美味しいもの」を追い求める飽くなき執念は始まっており、一生続きました。
 頑固で、他と妥協しない性格でしたから、魯山人に対する世間の評価は毀誉(きよ)半ばします。
 「芸術に位階勲章は要らない」と人間国宝の指定も拒否しています。
 生まれて間もなく里子にだされたり、養子としてたらい回しにされたりしたことが、このような、頑な性格を生み出したのかも知れません。
 そんな魯山人ですが、この言葉は、すとん、と腑に落ちます。料理の真髄ここにあり、ということが良く分かります。
 まず料理は良い素材。そして本来の持ち味をこわさないこと。何か、魯山人自身が歩んだ人生とは正反対の感じがします。しかし、そんな艱難辛苦(かんなんしんく)の人生から抽出したような印象が、この言葉にあります。
 この言葉は、よく考えると、近頃の子育てや教育にも通用する言葉のようですね。
 「素材」である子どもの個性をじっくりと見極めることなく、早い時期からいろいろな稽古事に行かせたり、競争心を煽る英才教育の場に投げ込んだり、「料理人」としてどうかな、と思う親がいます。
 一人ひとりの本来の良さを伸ばし、育むことの大切さを、この言葉は教えているかのようです。

鬼手仏心

デゴイチ  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 先日、上越線渋川駅で、久しぶりに蒸気機関車を見た。秋の紅葉シーズンの週末に、一日一往復だけ運転する特別列車だそうだ。
 上野駅から高崎駅までは電気機関車で牽引し、高崎でD51蒸気機関車に交代して水上駅までの運行である。
 高崎から北関東の田園地帯を抜けて上越国境の温泉町まで、およそ二時間かけて走るのである。
 小生が育った昭和三十年代、鉄道といえば蒸気機関車であった。
 煙と蒸気を吹き上げて駅に入ってくる機関車。冬の夜、北風に運ばれて聞こえてくる汽笛。一瞬にしてその頃の事が思い出され、しばしホームに止まったD51を見ていた。
 よくは知らないが、蒸気機関車の運転は相当の職人芸だったそうだ。釜焚き担当と運転手の息が合わなければ先ずうまくいかない。
 機関車にも一台一台個性があって、これも飲み込まないと正確な運転ができない。だから、勾配の続く山間部での運転などでは経験の差が歴然とでるのだそうだ。
 東北や日本海側の豪雪地帯の峠越えなどは、特に難物だったろう。それでも日本の隅々に人を物資を運び続け、戦後日本の復興の陰で黙々として働いてきた蒸気機関車。しかしやがて、大量輸送やスピードアップ、そしてトラック輸送へと時代が移り変わる中で第一線から静かに引退した蒸気機関車。
 確かに時代遅れの道具かもしれない。コンピュータ制御に慣れた者には、無骨で扱いにくい道具かもしれない。しかし、人が蒸気機関車を愛するのはなぜか。
 それは、頑固さや力強さを感じさせる、人間臭いところがあるからではないか。今の時代が失った大切なものを蒸気機関車が持っているからだと私は思う。

仏教の散歩道

敗者に対する同情

 競争社会というものは、必ず勝者と敗者をつくりだします。そして敗者は屈辱感を味わい、心が傷つきます。
 と同時に、じつは勝者も傷ついているのです。この点はあんがいに気づかれていないのですが、勝者は勝つことによって驕りが生じます。いわゆる天狗になるわけです。それはそれで別段問題はなさそうですが、天狗になるということは自分の実力を過信しているのです。勝者になれたことは、ある意味で偶然なんです。たまたま勝者になれたわけで、実力のゆえということはほとんどありません。それなのに、自分は実力があるから勝者になれたのだと錯覚しているのです。それが問題です。
 そして、そのような錯覚は、敗者に対する軽蔑の心を生みだします。他人に対して軽蔑の心を抱いたとき、その人の品格は下劣になっています。それが勝者の傷つきです。
 こんな話があります。
 田舎の高校で、二人のクラスメートが一流大学を目指していました。AくんとBくんにしておきます。Aくんは実力抜群で、先生たちも合格まちがいなしと評価していました。しかしBくんのほうは、今年は無理だろうと見られていたのです。
 だが、結果は、Bくんが合格してAくんは落ちた。
 それでAくんは、すっかり落ち込んでいましたが、そこにBくんが訪ねて来ます。たぶん自慢に来たのだろうと、Aくんの母親は「帰ってほしい」と言ったのですが、
 「ぼくは彼にどうしても話したいことがあるのだ」
 と、Bくんは強引に上がり込み、Aくんの部屋に入りました。そして、しばらく無言でいたのですが、やがて口を開いてこう言いました。
 「ぼくときみと、一生懸命に努力した。二人で一緒に合格することばかりを願っていた。それなのに、ぼくだけ通って、こんな結果になってしまった。残念だ。ごめんね。ぼくは、きみが来年合格できることを祈っているよ」
 Bくんは涙を流しながら帰って行きました。
 そのとき、Aくんは思ったのです。
 〈ぼくが合格して、Bくんが落ちていれば、ぼくはこんなことをBくんに言いに行っただろうか。ぼくが合格したら、自分は実力があるから通ったのだ。Bくんはもっと努力すればよい。そう思ったに違いない。きっとほとけさまはぼくに、おまえはBくんのような人間にならないといけないよ、と教えるために、ぼくを落とされたんだ。だから、不合格でよかったんだ〉
 そのように思うことのできたAくんは幸福です。Aくんはお寺の子どもであったから、そう思うことができたのです。敗者に対する同情を忘れたとき、勝者は傷ついているのだと思います。

カット・酒谷 加奈

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