天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第95号

慈覚大師1150年遠忌等を厳修へ
―平成24年度から10年にわたり順次奉修―

 祖師先徳顕彰大法会企画委員会(阿純孝委員長)では、昨年十二月十四日に同企画委員会を開催し、平成二十四年四月一日から平成三十四年三月末日までの十年間にわたり慈覚大師一一五〇年遠忌をはじめとする大法会を行うことを決定した。

 今回の大法会は、平成二十五年が慈覚大師の遠忌に相当することから企画された。
 十年にわたり順次、慈覚大師一一五〇年遠忌、伝教大師御生誕一二五〇年、一二〇〇年大遠忌、恵心僧都一〇〇〇年遠忌と続く。
 各祖師先徳を顕彰すると共に、その教えと信仰を現代に布衍させることが目的。具体的な記念行事等は、二月八日に行われる同企画委員会から協議される。
 大法会のトップに奉修される慈覚大師円仁は、現在の栃木県下都賀郡岩舟町あたりで生まれたとされる。幼少の頃に伝教大師と出会う夢を見て、比叡山に登り伝教大師に師事し、伝教大師の東国巡礼につき従っている。
 伝教大師入寂後は、比叡山の指導者となり、伝教大師が生前訪れることができなかった東北地方にも巡錫し布教活動を行った。
 その過労がたたったのか、四十歳で比叡山の横川で療養している時に、夢の中で伝教大師が「中国で仏教を学んで来て欲しい」と頼んだのをきっかけに遣唐請益僧として中国に渡ることを決意する。
 八三八年、三度目の渡航でようやく中国に渡った慈覚大師は、何度も天台山へ行くことを願い出るが、なかなか許可が下りない。やむなく揚州で経典を収集する。その数は一九八巻に及んだ。
 帰国船に乗り込んだものの、何としても仏教を学んでから帰国したいと思い、紆余曲折を経て、山東半島の赤山付近で船が立ち往生した時に急遽下船する。そこで、慈覚大師は赤山法華院の僧から、五台山でも天台が盛行されていることを聞き、五台山に向かうことを決意。
 赤山から五台山まで千二百キロの道程を経て到着。更に同じぐらいの道のりを長安へと向かったのである。長安では密教の勉強と経典書写に力を注ぎ、目的は達成された。
 しかし、当時道教を信奉する唐の皇帝・武帝は仏教に厳しい弾圧(会昌の破仏)を加えたため、還俗を強制され、長安を追放される。
 後、八四六年に武帝が急逝したために慈覚大師は僧に戻り翌年に帰国する。この経緯は、慈覚大師が著した世界三大旅行記といわれる「入唐求法巡礼行記」に詳しい。
 経典の他に慈覚大師が日本仏教にもたらした「声明」は、天台声明として完成し邦楽の源流となっている。八五四年に、慈覚大師は第三代天台座主となり、十年後に七十一歳で波瀾に満ちた生涯を閉じている。その二年後に、朝廷より、師の伝教大師の大師号と共に慈覚大師という大師号が下賜された。
 これは我が国における初めての大師号の下賜であった。

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「祖師の教えを現代に」 阿純孝委員長

 「武力によって国は滅びるのではなく、伝統を蔑(ないがし)ろにすることで国は滅びる」とは、ある哲学者の言だが、それは宗教にも言えることである。
 宗教の本質は「教え」にあるのだが、その教えは歴史を背負いつつ、それを超え未来に向かっている。根本中堂の不滅の法灯の精神はまさにそれだ。
 この大法会では、祖師先徳の教えを弘めることで、人々の心に法の灯をとどけたい。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 お釈迦様が言われた「無財の七施」とは、『声をかける/笑顔を見せて迎える/荷物を持ってあげる/席を譲ってあげる/水、食事をあげる/泊めてあげる』ことをさします。もう一つ、話を聞いてあげることを加えて八施にしたらいい

「ラジオ深夜便・珠玉の言葉」 早坂暁(脚本家)

 なるほど。目からウロコとは、このことかと思いました。
私たち凡夫には、お釈迦様の教えを着実に守ることは至難の業です。守ろう、守ろうとする気持ちが精一杯で、その教えに、更にプラスすることなど考えてもみませんでした。
 また「話を聞いてあげる」ということは、人様に対するお布施のひとつだと看破する人生観が素晴らしい。
 人は誰でも色々な悩み、苦しみを持っています。時には愚痴もこぼしたい。自分のことを分かって欲しい。その時に、黙って「うん、そうか。それは辛いな。わかるよ」と話を聞いてくれる人があるだけで、どれだけ救われることでしょうか。
 「男は黙って」というけれど、できるだけ自分のことは話さずに、一生懸命話を聞いてくれる人は、人間としても信頼できる人だと思います。
 単に仕事が出来る、頭が切れるけれども冷淡な人とは、深い人間関係を築くのは難しい。少しぐらいぼんやりしていも、話を聞いてくれる人はありがたい。
 さて、早坂さんにならって自分でも、九つ目の布施を考えてみました。
 「立場を譲る」なんて、どうでしょうか。「どうしても譲れない主張だ」などと息巻く人がいますが、冷静に見てみると、たいがいの事はどうでもいいようなものが多い。
 その時に「ま、今回はメンツを立ててやろう、助けてやろう」と思うことです。無理に説き伏せても、感情のしこりが残るだけと思われるときには一歩引く。もっとも、これは純粋な布施ではないかもしれません。
 無財の十施、無財の二十施とご自分で、たくさん考えてみてください。

鬼手仏心

川柳の視点 天台宗出版室長 杜多 道雄

  
 一般的に「川柳」というと、軽妙な笑いを誘う文芸だと思われがちですが、人間性を強く出した作家たちもいます。
 現代の与謝野晶子と評された故時実新子さんも、その一人です。というよりも、女性の本音、生理をギラリと出した作風は、サラリーマン川柳の、例えば「昼食は妻がセレブで俺セルフ」に慣れた私たちをギョッとさせるものでした。作家の田辺聖子さんは「一九八七年に刊行された『有夫恋』は、新子の代表作で、まどろみ深き柳壇を震撼させた」と書いています。
 時実さんは「すべては想像で書いた」と述懐しておられますが「爪を切る時にも思う人のあり」「心奪われ阿呆のような日が流れ」などは、女性の心の奥を写して、一読忘れがたい印象を残す秀句だと思います。
 時実さんは「私たち平凡な女は、欠点まみれの女を生きるしかなく、世の男たちもまた、欠点まみれの男を生きるしかない」と書いています。これが、彼女が川柳を作るときの視点であったのでしょう。
 私たちは、時に自分が特別な存在であると思う、あるいは思いたい。それゆえに、道を誤るような気がします。逆に欠点まみれであることを自覚するときに、自分自身の心の声が聞こえるように思います。
 晩年の時実さんは、夫が「ぶざまに腹を出して私と擦れちがうときなど、思わず涙ぐみそうになる」と言っていました。それは「もっとぶざまに老いて、老醜を晒しあうだろう同志の姿があるからである」と言います。
 このものの見方には、川柳作家の「優しい笑いの視点」よりも「人生の深淵」を覗き込むような凄みが感じられます。

仏教の散歩道

彼岸に渡れ!

 仏教の根本原理は何でしょうか? わたしは、それは「彼岸性」にあると思います。
 “彼岸”という言葉は“此岸(しがん)”に対するものです。そして此岸は、わたしたちが現実に住んでいる世界です。仏教ではそれを“娑婆(しゃば)”と呼びます。仏教は、わたしたちが娑婆を捨てて、
  彼岸に渡れ!
 と教えています。なぜかといえば、わたしたちはこの娑婆世界においては本当の幸福が得られないからです。幸福になるためには、娑婆を捨てて彼岸に渡るよりほかありません。
 考えてみてください。われわれが住んでいる日本の社会(すなわち此岸、娑婆)は激烈なる競争社会になっています。競争があれば、そこには必ず勝ち組と負け組が生じます。全員が勝ち組になるわけにはいきません。
 そして負け組は不幸です。勝ち組にくらべて生活のレベルはダウンし、また勝ち組に対する嫉妬心を持って生きねばならないから、幸福感は持てません。
 では、勝ち組は幸福でしょうか? そうではありません。彼は次の競争に参加せねばならず、その競争に負けるのではないかと怯えて暮らさねばなりません。そのため心の安らぎは得られません。ばかりか、いちど勝ち組になり、そしてそこから転落した者は、猛烈な劣等感を抱くことになります。最初からの負け組よりも、この転落組のほうがかえって不幸かもしれません。
 ともかく、いずれにしても競争社会の中では真の幸福は得られないのです。
 だから、此岸を捨てて彼岸に渡らねばならない。仏教は、「此岸を捨てよ!」と教えています。
 でも、「捨てる」といっても、あなたが所有しているすべてを捨ててしまえと言っているのではありません。すべてを捨てることなんて、絶対にできませんよ。
 では、何を捨てるかといえば、この世に対する、
  執着
 です。わたしたちはこの世に執着しています。この世の価値観を絶対視しています。その結果、欲望に苛(さいな)まれて、あくせくし、がつがつし、いらいらしながら生きています。
 わたしたちは、金持ちになることがいいことだと思っています。それがこの世の価値観です。だが、金持ちになるために失うものが大きくありませんか。のんびり、ゆったりと生きる幸せを失ってしまいます。それに、金持ちになったところで、それで幸せになれるとはかぎりません。むしろ金持ちになったがゆえに、それを失うことを怖れてびくびく生きることになりそうです。
 ともあれ、この世の価値観を絶対視しないこと。この世をある意味では馬鹿にすること。それが仏教の教える「彼岸性」なんですよ。

カット・酒谷 加奈

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