天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第94号

天台宗全国一斉托鉢を実施

 天台宗では、昨年十二月一日、全国一斉托鉢を実施した。この一斉托鉢は、毎年同日に行われており、今回で二十五回目を迎え、今では師走を告げる「街の風物詩」として知られている。
 今回の一斉托鉢は、全国五十九カ所で実施された。寄せられた浄財は、NHKの歳末たすけあいや、各地の社会福祉協議会、日本赤十字社、一隅を照らす運動総本部の「地球救援募金」などを通じて、国内外の恵まれない人々に贈られた。

 天台宗全国一斉托鉢が始まったのは、昭和六十一年、故山田惠諦第二百五十三世天台座主猊下が自ら先頭に立って托鉢行脚をし、浄財を集められたことからである。
 宗祖伝教大師のみ教え『忘己利他』の精神を実践に移す行動であり、国内のみならず世界の国々において、現に苦しみの境涯にいる人々を座視せず、手を差し伸べることの大切さを世に訴えることでもあった。
 この托鉢はその後、十二月を一隅を照らす運動の一環である「地球救援募金強化月間」として定めて、活動を拡大するなど、天台宗全体の行事として今日に至っている。今では、この一斉托鉢は広く知られ、人々から寄せられる善意は大きなものとなり、全国的な規模となった。 
 師走のスタートである一日、比叡山麓の坂本地区では、半田孝淳天台座主猊下、阿純孝天台宗宗務総長、武覚超延暦寺執行、延暦寺一山住職、天台宗務庁役職員など約百名が参加した。
 一行は、半田座主猊下を先頭に宗祖生誕の地・生源寺を出発、坂本地区の里道を般若心経を唱えながら行脚。 
 訪れた家々の玄関先では、浄財を持って待っている人も多く、座主猊下の姿を見ると、駆け寄って合掌し、ねぎらいの言葉と共に浄財を喜捨、座主猊下も「温かいお気持ちを有意義に使わせて頂きます」と感謝の意を表されていた。
 その後、参加者たちは各々少人数の班に分かれ、坂本地区を戸別に訪れたり、JRや私鉄の駅頭で街頭募金を行い、多くの心のこもった浄財を受け取った。国内外で、災害や世界的な不況による貧困などで苦しんでいる人々も多く、この浄財はそうした人々に寄せられる。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

昨年はご厚情をいただいた気がしません。本年はよろしく。

「糸井重里の萬流コピー塾U・S・A」 梅田龍夫

 虚礼廃止などというムキもあるが、元旦の楽しみは年賀状である。
 子どもの頃など、父親が印刷所に発注した年賀状が届くと「お正月が来る」と思ったものだった。
 しかし、それも現役の時には多いが、退職したりするとトタンにぐんと減るのは淋しい。これも人の世の習いである。
 年賀状とは「新年を祝う言葉を以ってあいさつし、旧年中の厚誼の感謝と、新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを表す。親しい相手への場合などには近況を添える」と、ものの本に解説してある。
 表書きも本文も、毛筆でしたためるのが本義であろうが、昨今は専用ソフトを使い、パソコンで作られたものが殆どである。 
 偉い方から「ダイレクトメールのような年賀状に返事は書かん」と叱られたことがあるので、その方にだけには万年筆で表書きをする。
 が、衆寡は敵さない。裏はやっぱりパソコンソフトで作るのである。
 さて、表題。
 普通は「昨年中はご厚情をいただきありがたく」である。これが決まり文句であって、そうでないものを書かれるとドキッとする。
 「昨年はご厚情をいただいた気がしません」と書ける間柄というのは、互いに心がしっかりと通っていなくてはならない。「おれ、おまえ」の関係である。
 聖徳太子は「世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり」と教えられたが、虚仮の中にだって、心安らぐ関係もある。 
 もちろん、一回しか会ったことのない相手に、この文句を使えば「失礼な奴」と切り捨てられるのは必定。
 定型文が安全ではあるが、たまには、こんな遊びもあってもいいのではないだろうか。
 貰う方もちょっと、笑みが浮かぶことだろう。ただし、意が通じる人だけにしないとダメだが。

仏教の散歩道

他人を傷つけない言葉

 不用意に発せられた言葉は、他人を傷つけることがあります。自分は別段、相手を貶めるつもりがなくても、相手はそれを気にし、そしてその言葉を発した人を憎むようになります。そうすると、言葉は相手を傷つけると同時に、また自分をも傷つけるのです。
 では、相手を褒める言葉であれば問題はないかといえば、この褒め言葉もあんがいにむずかしいものです。見えすいた世辞や追従は、聞かされる人もそれほどうれしくありません。また、お世辞たらたらの人は、その人の人格が疑われるでしょう。
 言葉というものはむずかしいものです。
 では、わたしたちは、どのような言葉を発すべきでしょうか?
 それについては、釈迦世尊は次のように教えておられます。
 《自分を苦しめない言葉、また、他人を傷つけない言葉のみを語れ》(『ウダーナヴァルガ』8・12)
 その言葉を発することによって、自分が苦しんだり、相手を傷つけたりするような言葉は語るべきではないというのです。
 これと同じことを、わが国の曹洞宗の開祖の道元(一二〇〇|五三)が言っています。
 《学道の人、言(こと)ばを発せんとする時は、三度顧(みたびかえりみ)て自利利他の為に利あるべくんば是(これ)を云(いう)べし。利なからん言語(ごんご)は止まるべし》(『正法眼蔵随聞記』六・三)
 学道の人とは、仏道修行をしている人です。その人は、何かを言おうと思ったとき、この言葉を言うことは自分にとって利益になることか、また相手の利益になることか、三度にわたって熟慮せよというのです。そして、利益がないのであれば、そのような発言をすべきではない。沈黙しているほうがよい。道元はそう言っています。釈迦が言っておられることと同じです。
 わたしたちは、〈あんな言葉は言うべきではなかった〉と、あとで反省することがあります。けれども、いったん発した言葉は取返しがつきません。それで、〈言わなければよかった、言わなければよかった〉と、いつまでもくよくよ悩むはめになります。つまり、自分が不利益になっているのです。だから、そうならないために、われわれは言葉を発する前に、この言葉を言うべき必要があるかどうかをよく考えろ、と道元は忠告してくれているのです。
 それから、相手を傷つける言葉も言うべきではありません。音痴の人に向かって、「おまえは音痴だ」と言う。それを言われて、その人はうれしいでしょうか。相手にとってうれしくない言葉は、たいていの場合、言う必要のない言葉です。そんな言葉を発するよりは、沈黙を守っているほうがよいのです。
 そして、以上のように言ったあと、道元は次の言葉を付け加えています。
 《かくのごときの事も一度にはゑがたし。心にかけて漸々(ぜんぜん)に習ふべきなり》

カット・酒谷 加奈

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