天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第93号

本堂落慶5周年記念法要を厳修
―天台宗ニューヨーク別院 慈雲山天台寺―

 北米で唯一の天台宗寺院である天台宗ニューヨーク別院慈雲山天台寺(聞真・ポール・ネエモン住職)本堂が平成十七年に落慶して今年で五周年を迎えた。この勝縁に天台宗海外伝道事業団(山田俊和理事長)では、記念参拝団を派遣、去る十月二十三日、本堂落慶五周年記念法要を奉修した。

 本堂落慶五周年記念法要は、大導師に神田秀順東叡山輪王寺門跡門主(寛永寺住職)を迎え、副導師をネエモン住職が務めて執り行われた。法要には、天台仏教青年連盟(寺門俊明代表)会員十数名が出仕し、同別院のメンバー多数も随喜した。
 法要後の式典では、山田理事長が「ネエモン師の熱心な教化のもと、多くの方々が天台の教えを学ばれ、別院は新たな仏教発信の聖地として益々その法灯の輝きを増すことが期待されています。天台の法華一乗の教えが人々の心に安心を与えられるよう、今後、一層ご努力されることお願い申し上げます」と挨拶、神田門主のお言葉に続いて、本山特使である延暦寺一山勝華寺住職・小森秀恵師、西郊良光天台宗宗機顧問、栢木寛照天台宗宗議会議長やアメリカ側代表者から祝辞が贈られた。
 これに対し、ネエモン住職は「本堂の荘厳は、北米と日本が融合し、参拝者も『とても心が和む空間だ』と言われています。これは、日本の天台宗と地元のサンガ・メンバーが、西洋における天台仏教の成長に適切な環境を創りだしてくれたからだと思います。今後とも別院の活動に対し、ご支援のほど、お願い申し上げます」と謝辞を述べた。
 また、法要の後、小森師を戒師に、同別院メンバー六名の得度式も執り行われた。
 ニューヨーク別院は、ニューヨーク市のマンハッタンから北へ百九十キロ離れた郊外に位置し、境内は約七万坪で、広大な大平原の一角にある。天台宗は、二〇〇一年に同別院と包括関係を結んでいる。
 ネエモン住職は、一九八九年に医学・生物・人類学研究のため来日、その後、天台仏教と出会い、一島正眞大正大学名誉教授を戒師に得度、比叡山行院を遂業している。
 帰国後は十数年にわたり、座禅や法華経の勉強会を開き、信徒の教化に取り組んできた。本堂落慶後も、着実に教化の輪を広げている。

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 ボストン美術館で護摩供法要を厳修

 ボストン美術館中庭で、十月二十四日、ニューヨーク別院の本堂落慶五周年記念法要に併せ、小森師の導師で護摩供が修された。
 同美術館の東洋美術コレクションの礎を築いた東洋美術史家フェノロサと医師ビゲローが、天台宗の法明院(現・天台寺門宗)で得度して百二十五年。その縁から同日の護摩供となったもの。
 ネエモン師による護摩供の解説もあり、集まった現地の人々五百余名も護摩木に祈願を書き、法要を興味深く見守っていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

それゆえにわたしの兄弟たちよ
恩知らずの罪に陥るな

聖フランチェスコ 「小さき花」

 イタリアのアッシジは、 この町出身の聖人である聖フランチェスコと彼の名を冠したサン・フランチェスコ大聖堂で有名です。
 大聖堂の壁画には、小鳥に説教をする聖フランチェスコが描かれています。
 葉を繁らせた木の下に、たくさんの小鳥たちが下りたって、聖フランチェスコを見上げています。
 このエピソードは、聖フランチェスコの逸話集である『小さき花』に出ています。
 ある日、聖フランチェスコが野原に入って、小鳥たちに説教を始めると、鳥たちは木から下りて、説教が終わるまで聴き、終わってもまだその場から飛び立たないでいた、というものです。
 聖フランチェスコは「神様は、おまえたちに、どこへでも飛んでゆける能力を与えられ、二重三重に美しい衣で装い、蒔かず、刈らず、食物や川の水を与えられる。身を守る山や谷、巣を作る木を与えられる。それゆえにわたしの兄弟たちよ、恩知らずの罪に陥るな」と説教したと伝えられます。
 おとぎ話のようで、理屈で何でも考える現代人には信じがたい話です。
 けれども、聖フランチェスコが語っているのは「衣食住が与えられている。これを神の恩恵といわずして何といおうか。これ以上の贅沢を望むことがあろうか」ということだと思います。
 聖フランチェスコは「生きる喜びを本当に知るためには貧しくあらねばならない」という信念に生きた人です。だから、小鳥たちも彼の言葉に耳を傾けたのかも知れません。
 また小鳥たちを「私の兄弟」と呼びかけています。別の聖人も「すべてのものは同じ根源から出ている」と言いました。
 人間、動物、植物はもちろん、この世界の森羅万象すべてが同じ根源から発し、調和してるという考えです。これは天台宗の「山川草木悉有仏性」の考え方と同じだと思います。

鬼手仏心

ラオスの学校を視察して 天台宗参務一隅を照らす運動総本部長 福惠善高

 
 先月十一月二日から六日までの五日間、ラオスの小学校視察を行った。 一隅を照らす運動総本部が、NGO法人の協力により建てた小学校二十三校の内の四校と、神奈川教区支援の二校である。古いものでは十八年も経過している小学校もある。
 私も小学校建設に参加したことがある。平成七年、場所は首都ビエンチャンだった。当時、ビエンチャンの市街地は、交通信号機が一つぐらいしかなく、舗装道路もなく、自動車も少なかった。今は、欧米人の観光客も多く、ビルもいくつか建てられ、繁華街もあり、コンビニエンスストアまでもある。時代の流れを強く感じた。
 しかし、街のはずれに行くと、当時訪れた風景とあまり変わりがない。何となく複雑な気持ちになった。子どもたちの多さにもビックリ。将来、この多くの子どもたちが国を築いていくと思うと、つい少子化日本と比べてしまう。
 視察で訪れると、先生も児童も授業を中断し、あたたかく迎えてくれる。校長先生も、現在の生徒数や小学校ができて以来の卒業生の人数など、詳細に説明をしてくれる。
 しかし、首都ビエンチャン郊外の小学校の校長先生はこう嘆いた。「貧富の格差がでてきているので、裕福な家庭は、子どもを私立の小学校に通わせる」と。すでに格差の波はラオスにまで及んできているのか。
 視察した学校では、校舎を大切に使用していることが分かり、深い感動を覚えた。貧しいながらも共に助け合いながら生活をしているラオスの人たち。その絆の強さに、無縁社会などと言われるようになった日本人は、何か一番大切なものを犠牲にしてしまったのでは、との思いが湧いてきた。

仏教の散歩道

ご馳走を食べない

 好んで鸚鵡(おうむ)の肉を賞味する国王がいました。昔のインドの話です。狩猟者たちは国王の歓心を得るために、鸚鵡を捕えて国王に献上します。料理人は、その中からいちばん肥満したものを選んで国王の食膳に供しました。
 そこで、一羽の鸚鵡が考えたのです。この牢獄から脱出するにはどうすればよいか? 太ってはいけない。貪(むさぼ)る心をやめよう、と。そうして彼は仲間たちに言います。
 「みんな、聞いてほしい。しばらく食物を断とう。そうすると、身体は痩せ細る。少しぐらい苦しくとも、命は助かるのだから」
 だが、眼前に見せつけられたご馳走を前にしては、この鸚鵡の提案に同ずる者は誰もいません。ただ彼だけが、その日以来、食を減じました。そのために彼は針金のように痩せ細り、ある日、籠から自由に飛び立つことができたのです。
 この話は『六度集経』(第四巻)に出てきます。われわれ現代日本人に対する苦言になっていますね。
 仏教の教えは、基本的に、
 ―少欲知足―
 です。あなたの欲望を少なくし、足(た)るを知る心を持ちなさい、というのが仏教の基本原理です。それは誰もが知っています。
 ところが、現代社会は、わたしたちの前に豪勢なご馳走を並べてくれます。そのご馳走を食べると、わたしたちは肥満体になります。肥満体になるということは、ますます貪欲になるのです。ご馳走を食べる前は、そんなに貪欲ではなかったのに、いったんご馳走をいただくと、どうしようもない欲望人間になってしまうのです。
 考えてみると、敗戦直後の、日本全体が貧しい時代には、みんながわりと明るく幸せに生きていました。「狭いながらも楽しいわが家」と、そんな言葉がありました。
 ところが、高度経済成長期を迎えると、ちょっと努力すれば収入が増えるもので、みんながあくせくし、いらいらし、がつがつと努力するようになったのです。ゆったり、のんびりと生きようとする人々を、「やる気がない」といった言葉で非難し、除(の)け者にしてきたのです。つまり、日本人はおしなべてご馳走の魅力に負けてしまったわけです。そして肥満体になった人間だけが正常な人間だと錯覚しました。
 馬鹿ですねぇ、日本人は。欲望に苛(さいな)まれてて、あくせく、いらいら、がつがつと生きる人生のどこに幸せがあるのですか。そんな人生は地獄そのものです。
 わたしたちは、仏教の「少欲知足」の教えに学んで、ちょっとご馳走を食べるのをやめましょう。節食するのは苦しいでしょうが、痩せ細ることができれば、わたしたちはゆったりと、のんびりと生きることができるのです。それが地獄からの脱出になります。牢獄の中でご馳走を食べるより、粗衣粗食の自由な生活のほうがすばらしいと思いませんか。

カット・酒谷 加奈

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