天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第85号

明るく輝く笑顔を絶やさぬために
-プラティープ財団支援事業を視察-

 一隅を照らす運動総本部(福惠善高総本部長)では、三月初旬、永年にわたり支援を続けているタイのドゥアン・プラティープ財団に交流親善視察団を派遣、同総本部が支援する各事業の現状を視察した。プラティープ財団はスラムで暮らす人々の救済を目的に設立された財団で、教育から社会福祉、健康、人材育成など、幅広いプロジェクト活動を展開している。なお同総本部では、今回、プラティープ財団及び、同じくタイで教育支援活動を行っているシャンティ・国際ボランティア会バンコク事務所に対し、支援金を贈呈した。

 ドゥアン・プラティープ財団は、スラム出身のプラティープ・ウンソンタム・秦・女史が、アジアのノーベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を受賞したのを機に、その賞金を基に一九七八年に設立された。
 タイは、急激な近代化、工業政策のひずみによって、都市と農村部の経済格差が生じ、経済的繁栄に取り残された農村部の人々が生活の糧を求めてバンコクなどの都市部に流入。しかし、安価な労働力である彼等に対し、住宅問題など計画的な受け容れ対策が行われなかった。その結果、 バンコクでは千八百カ所、三百万人以上の人々が住むスラムが形成された。
 スラムは劣悪な居住環境であり、住民は不当な労働条件で暮らす。そのため、犯罪に走る人も多く、また麻薬汚染で家庭も崩壊、子どもたちも教育を受けられず行き場を失っている。医療も満足に受けられず、法的な権利も認められない事が多い。
 この現状に対し同財団は、教育面、健康面でのケア活動の他、人材育成では、家庭内暴力を受けている子どもや麻薬や犯罪に走る青少年たちを立ち直らせる『生き直しの学校』プロジェクト等、広範囲に亘る活動を行っている。
 同財団を支援している一隅を照らす運動総本部の交流親善視察団一行は、三月二日、チュンポン県にある『生き直しの学校』を訪問。豊かな自然に囲まれた農園で勉学や職業訓練に励む子どもたちと会い、明るく元気な様子の彼等と交流。また、三日はバンコク最大のスラムと言われるクロントイ・スラムにある財団本部を訪問、四日はカンチャナブリ県に開設されている『生き直しの学校』のアブラヤシ園を訪れた。このアブラヤシ園は、同財団設立二十五周年を記念して立ち上げられた事業で、学校の運営費を少しでも自力で賄えるように、と計画されたもの。
 草別善哉一隅を照らす運動総本部次長は「世界的不況もあり、財団を取り巻く経済状況も厳しいものがある。今後も根強く支援を続けていきたい。視察で出会った子どもたちの明るさ、笑顔を失わせないためにも出来る限りの努力をしたい」と視察を振り返った。

…………………………………………………………………………
 チリ地震災害に対して緊急支援 - 一隅を照らす運動総本部 -

 南米チリで、去る二月二十七日に発生したマグニチュード(M)八・八の大地震は、多数の犠牲者を出し、建物やライフラインの施設を崩壊させるなどの大災害を引き起こした。
 一隅を照らす運動総本部では、被害の甚大さに鑑み、緊急支援を決定、募金活動を展開していくこととした。また、一月に起きたハイチ地震も長期的な支援活動が必至となっており、同総本部では、全国の天台宗寺院、檀信徒を始めとして、幅広く支援金を募る。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

この世は不平等と思え

劇作家 浅利 慶太

 ある小学校で、クラスの女の子全員が主役の白雪姫を演ずる学芸会が行われたという記事がありました。
 脇役である魔法使いや七人の小人などは全く登場せず、二十五人の白雪姫が舞台に現れたのです。モンスター・ペアレントと呼ばれる保護者たちが「主役に一人の女の子を選ぶのは不当だ」と訴えてこの結果になったといいます。どんなストーリーだったのか興味津々ですが、多分、これではストーリーは作りようがないでしょう。
 無理が通れば道理が引っ込むといいますが、保護者たちの身勝手さに寒々としたものを感じます。「主役以外は意味がない」という価値基準は、あまりに愚かしい。外国の新聞は「この両親たちは、子どもたちに常識を破ることを教えている」と報じました。きっとモンスター・ペアレントたちは「この世は、主役だけでは成り立たない」というような普通の常識がないのでしょう。不幸の始まりだと思えます。
 劇団四季を率いる浅利さんは、新しい入団者にまず「この世は不平等と思え」といいます。モンスター・ペアレントが聞けば、激怒するような言葉です。ある意味辛い言葉です。しかし、その自覚がなく、不平不満を持っていては稽古に集中できないと浅利さんはいっています。
 主役ばかりが人生か、などとお説教をするつもりはありませんが、ラクに生きる幸せというのもあると思うし、人の役に立つ満足というのもアリではないかと思われます。
 人は誰でも頑張ればオリンピックで金メダルを取れるというものでもないし(才能プラスものすごい努力が必要)、世界を動かすような企業を築くのは(そこに入社して出世することも)無理だということは、ある程度の年齢になれば分かります。白雪姫にはなれないということが分かるわけです。そのことが分かると、幸せに生きるとは何かが分かる気がします。少なくともイソップ物語にある「自分の手に届かないブドウは酸っぱい」と思うキツネにはならなくてすむように思うのです。

鬼手仏心

ボールは丸い  天台宗参務財務部長 阿部 昌宏

 
 ドイツ人は「我々ドイツ人には忘れられないことが二つある。一つはベルリンの壁の崩壊、もう一つは、ワールドカップ初優勝だ」といいます。
 ワールドカップ初優勝とは、第二次世界大戦での敗戦に打ちのめされていた一九五四年に、西ドイツがスイスで開催されたワールドカップで優勝したことを指します。
 西ドイツの代表監督を務めたのは、ドイツサッカー生みの親と呼ばれたゼップ・ヘルベルガーです。
ヘルベルガーが、国際試合で四年間無敗を誇るハンガリーとの決勝戦を前にして、どう戦ったら勝てるだろうかと悩んでいた時、ホテルの掃除婦から「ボールは丸くて、試合は九十分だよ」と励まされます。
 「ボールは丸い」とは、ボールはあちこち飛び跳ねて、予測不能の動きをすることから、何が起こるかわからない、勝機は十分ある、ということです。
 「試合は九十分」とは、敵も味方も与えられた時間は同じ、最後までベストを尽くす者が勝つ、ということでしょう。
 六万人の観衆を前に決勝戦が始まりました。予想通り、ハンガリーが二点を先制しますが、西ドイツもすぐに追いついて意地をみせます。
 西ドイツは、後半終了間際に一点を追加し、勝利を確信しますが、残り時間二分でハンガリーにシュートを決められてしまいます。しかしこの時、オフサイドの判定が下され、ハンガリーには得点が入りませんでした。かくして西ドイツは史上三カ国目の初優勝を遂げたのです。
人生も同じことで、何が起こるかわかりません。私は事ある毎に「ボールは丸い」と自分を励まし、また戒めるようにしています。

仏教の散歩道

煮えたぎる銅汁

 閻魔大王といえば、死者の生前の罪を裁き判決を下す裁判官です。見るからに(といっても、わたしは一度も実物を見たことがありませんが)恐ろしい顔をしています。
 だが、仏教の教理によりますと、この閻魔大王の正体は地蔵菩薩(ぼさつ)です。いつもにこにこと柔和な顔をしておられるお地蔵さんと、怖い閻魔さんが同一人物だというのだから、ちょっと驚きです。なぜなのでしょうか?
 それは、もしもお地蔵さんが柔和な姿のままで死者の裁きをされるなら、死者はお地蔵さんに甘えて、いっこうに生前の罪を反省しないからです。そこでお地蔵さんは怖い閻魔大王の姿を見せて、死者を脅かしておられるのです。もちろん、脅しは表面的なもので、本質においてはお地蔵さんは死者の罪をすべて赦しておられるのです。
 それから、閻魔大王は毎日、亡者の罪を裁く前に、煮えたぎる銅汁(どうじゅう)を飲み干すといわれています。
 これは、煮えたぎる銅汁が閻魔大王の嗜好品というわけではりません。煮えたぎる銅汁を飲めば、彼の喉は焼けただれ、七転八倒の苦しみを味わわねばなりません。その苦しみを味わうために彼は銅汁を飲むのです。
 では、なぜ閻魔大王は、そんなサディスティックなことをするのでしょうか?
 それは、彼が裁かねばならない罪人たちと同じ苦しみを味わうためです。
 わたしたちは簡単に人を裁きます。罪を犯した人に対して、〈あの人は悪い人だ〉と断罪し、非難し、攻撃を加えます。平気で人を鞭打つことをします。
 けれども、わたしたちが他人を裁くとき、わたしたちは傲慢になっています。人間の弱さを忘れてしまっています。人間というのは弱い存在です。だから、同じような状況に置かれたならば、自分だってその人と同じ罪を犯したかもしれないのです。それなのに、傲慢にも自分は完璧な人間であると自惚れて、
 〈わたしであれば、絶対にあのような罪は犯さない〉
 と信じ込んで、その上で罪を犯した人を裁いているのです。しかも、本当の裁判であれば裁判長は被告の弁明、釈明を聞くのですが、わたしたちが他人を裁くときには、相手の弁明を聞かずに、ただ一方的に裁いてしまいます。まったくおかしな裁きです。
 閻魔大王は死者を裁くとき、その前に煮えたぎる銅汁を飲みます。裁かれる人の苦しみを味わうためです。わたしたちも人を裁くのであれば、煮えたぎる銅汁を飲むべきです。
 ですが、われわれ人間は煮えたぎる銅汁なんて飲めません。そんなことをすれば死んでしまいます。
 そうであれば、わたしたちは人を裁いてはいけないのです。「人を裁くな!」というのが、閻魔大王の教えだと思います。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る