宝満山と宇佐神宮に「宝塔」を建立
宗祖伝教大師が、国家安泰、仏法興隆、国民安楽を祈念するための拠点にと、日本全国の六カ所に塔の建立を企画されたのが「六所宝塔」である。しかし、歴史の流れの中で失われ、当時のものは現在残っていない。そのため、伝教大師の遺徳を偲び、大師顕彰の意味を込めて法華経を納める宝塔(如法経塔)が、九州・太宰府宝満山の安西筑前宝塔跡と宇佐神宮に、それぞれ建立され、十一月十六日に宝満山で、また十七日には宇佐神宮で除幕法要が厳修された。
竈門神社のある宝満山の遺跡発掘調査は、平成二十年に太宰府教育委員会によって行われ、裾部の一辺が二十の基壇を持つ三間四方の礎石建物が発見され「本谷礎石群」と呼ばれた。
その後の調査で基壇周辺より平安期の瓦や小金銅仏などが出土し、年代や文献とも一致した。こうしたことから、安西筑前宝塔と同一であると証明された。筑前国竈門山寺にあった宝塔は、太宰府鎮護のものであり「安西塔」とも呼ばれていた。
この発見が契機となり、天台宗では、天台宗開宗千二百年慶讃大法会の記念事業の一環として、宗祖伝教大師顕彰を含めて宝塔を建立することを計画。
九州西教区が中心となって宝満山に、また九州東教区の尽力で宇佐神宮に宝塔が建立されたものである。
伝教大師は、遣唐使として出港する前年、延暦二十二(八○三)年に宝満山竈門山寺に籠もって、渡海の無事を祈り薬師如来四体を刻み、法華経を講じたとされる。また、同じく宇佐八幡大神を拝して、渡海の無事を祈ったと伝えられる。
無事に入唐求法を終えて日本に戻った伝教大師は、弘仁五(八一四)年に宇佐神宮を巡拝し、神恩感謝のために、宇佐神宮に千手観音と大般若経と法華経一千部八千巻を奉納、宇佐神宮(当時は弥勒寺)に六所宝塔のひとつ安南の宝塔を建立することを発願されたのである。
また慈覚大師は承和十四(八四七)年に唐より帰国した時、竈門山寺(当時は大山寺)に立ち寄り金剛般若経一千巻を転じた。その後、法華経一千部を納める安西宝塔が完成したといわれている。
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次期宗務総長に阿純孝師が決定
十二月十一日に任期満了を迎える宗務総長選挙の結果、後任に阿純孝師(東京教区・圓融寺住職)が就任することが決まった。十一月二十五日に当選証書が授与され、当選が確定した。
阿(おか) 純孝(じゅんこう)師
昭和十二年生まれ、七十二歳。早稲田大学文学部卒。昭和五十二年より圓融寺住職。宗務所長一期、宗議会議員一期を歴任。