天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第65号

平和のために提言する世界宗教者会議

 平和・環境・貧困などの問題を話し合う「平和のために提言する世界宗教者会議~G8北海道・洞爺湖サミットに向けて~」が七月二、三の両日に亘り札幌で開催され、二十四項目の提言を採択、主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット・七月七~九日)を主催する日本国政府に提出し、サミット参加各国に配布を要請した。主催は世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会。

 同会議は『G8北海道・洞爺湖サミット』に合わせて開かれ、二十三の国や地域から、仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などの約三百名の宗教指導者らが参加、天台宗からも半田孝淳座主猊下、濱中光礼宗務総長、清原惠光延暦寺前執行、杉谷義純宗機顧問らが参加した。
 二日間に亘る会議では、「共有される安全保障」のテーマの下、世界が当面する環境問題、貧困問題、核廃絶、テロなどについて討議を重ねた。
 宗教の垣根を越えての真摯な議論が展開された結果、二十四項目の提言を採択した。具体的には、軍事費の削減を図りその財源で環境保護推進の基金を創設すること、核軍縮・核不拡散の実施、依然として続くテロや紛争の解決のため異宗教間の協力を支持すること、エイズやマラリアなどの感染症対策強化などで、一国、一地域の問題ではなく、世界が一体となって取り組むべき必要性が盛り込まれている。提言は同会議に出席した大野松茂官房副長官を通じて日本国政府に提出され、四日、出席代表者が首相官邸でサミット議長を務める福田康夫首相に手渡した。
 また、全体会議において各宗教による平和への祈りが行われ、日本仏教では半田座主猊下が代表として祈りを捧げると共に「天台宗の宗祖伝教大師は『因なくして果を得る。この処りあることなし』と述べられました。問題解決のためには、原因を知ることです。また『善なくして苦を免がる、この処りあることなし』と教えられている通り、善き行動によってこそ問題解決の道は開かれるのであります」と祈願文を読み上げ、世界中の一人ひとりが良心に従って善を行うことが、直面する問題の深化を止め、悲しみと絶望の淵に沈む人々を救うことになると訴えられた。
 濱中宗務総長は「連日の熱心な討議によりまとめられた各提言が、世界の政治指導者の心に届くことを切に希望しています」と会議を振り返っていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

お茶汲み一つにも、雑巾がけ一つにも
その人の人間性が表れているものです。
それと同じものが、話し方の中にも出るんです。

一龍斎貞水「心を揺さぶる語り方」/NHK出版

 一龍斎貞水師匠は、講談界初の人間国宝です。伝統話芸の世界では、落語の故・柳家小さん師匠、桂米朝師匠に続いて三人目。
 仏教と伝統話芸では、もちろん世界が違いますが、どちらも厳しい修行と鍛錬によって自分を磨くことは同じです。道を極めようとする世界には共通する所があるように思います。
 華厳宗の僧で、栂尾(とがのお)高山寺を開いた明恵上人に「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」という言葉があります。僧は僧のように、俗は俗のように、あるべきように生きるべきである、という意味だとされます。
 一龍斎師匠によると「我々から見ていて、お客様が最も拒絶反応を示すときというのは、はっきりしている。らしくない話し方をするやつが出てきたときです」。
 前座のくせに名人のような話し方をすると客は帰ってしまう。そういうのは一番ダメということを叩き込まれるところから話芸の修行は始まるというのです。下手でも一所懸命に演ずるとお客も納得してくれると言います。
 「『らしく』しなさい。『ぶる』んじゃないよ」と教えられるのです。
 話には、人生経験、熱意や思いやり、その人の全部が出るといいます。師匠は「人間関係の基本は、自分が変われば、相手も変わるということだ」と言います。これは、仏教の教えと同じです。「嫌な奴だ」と思って接すれば、相手もそう思いますし、好感を持って付き合えば、友好的になります。高座では、真剣にやるか、緩めてやるかで相手の反応も違うというのです。
 要は「心から心に向けて話すこと、それが一番大事」と師匠は言います。仏さまのことを話すときも、聞く時も、自分の人間性全部をかけて話し、また聞くことによって心に届くのだと思います。

鬼手仏心

夏休み  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 新幹線車内が、子ども連れのファミリーで賑やかだ。毎年夏休みのこの時期、繰り返される光景である。
 自坊と宗務庁往復の切符を取るにもかなり前から、そのつもりでいないと希望時間のものがとれない。
 リュックサックを背にした元気な子どもたちに比べて、父親の顔に疲れが見えるように思うのは自分自身の姿の投影か。
 そもそも夏休みは、夏季の暑さのために学校での授業も集中できないし、いっそこの時期、休みにして子どもたちに普段、学校では経験できないことを経験させたらどうかなどの理由で始まったものと聞く。
 しかし自分の思い出の中では、そんな事はどうでも良く、明日から休みだと思うだけでのびのびした気分になったのはよく覚えている。
 夏休み帳も在るには在ったが、それより遊ぶに夢中で、いつも休みの最後の晩、泣きべそをかきながら机に向かった事が思い出される。
 それでも今の子どもたちよりはるかにのんびりと夏休みを満喫していたのではないかと思う。
 今年のJR東海の夏のキャンペーンポスターは延暦寺根本中堂である。普段見慣れた堂内であるが、ポスターになってみると一段と荘厳な感じである。また、その写真に添えられたコピーが良い。
 「絵日記を書いて、それでおしまいになってしまうような夏じゃなく。大きくなって、思い出してくれるような『夏の記憶』をつくれるかどうか、親も、試されているのです」というのである。
 歴史や伝統に対する思いが次第に薄くなっていく今日、古き良き日本の姿を、親子でゆったりと考え合う。
 そんな夏休みの一日が豊かな思い出となり、日本の文化が次代へと継承されていく大切な時間となる。

仏教の散歩道

がんばらない菩薩

 『法華経』の「法師功徳品(ほっしくどくほん)」に常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)が登場します。わたしは、この常精進菩薩を、
 -がんばらない菩薩-
 だと呼びたいのです。常精進菩薩は文字通りには「常に精進をする菩薩」ですが、常に精進をしようとすれば、がんばってはいけません。がんばれば、きっと息切れするからです。
 ちょっとここで、“菩薩”といった言葉を解説しておきます。
 菩薩というのは、仏になる前の存在です。あるいは、仏になろうとして修行をしている人をいいます。または、仏への道を歩んでいる人です。したがって、菩薩というのは「求道者」だと思えばいいのです。
 ところで、菩薩のうちには、観世音(かんぜおん)菩薩<あるいは観音(かんのん)菩薩>や地蔵菩薩のように、仏になるための修行を続けて、実力的には仏と変りのない菩薩もおいでになります。文殊(もんじゅ)菩薩や普賢(ふげん)菩薩もそうですね。
 だが、そのように偉い菩薩だけが菩薩ではありません。じつは、わたしたちのように、仏道をほんのちょっと歩み始めたばかりの人間も、やはり菩薩なんです。だって、仏道を歩み始めるということは、やがてその道は仏に通じているから、その人は「仏になる前の存在」です。すなわち菩薩です。
 つまり、菩薩というのは、どれだけ仏に近づいたか、その結果が問題ではなく、わたしたちが仏に向かって歩もうとする姿勢が大事なんです。なぜかといえば、わたしたちが仏道を歩んでゴールである仏に到達するためには、何度も何度も、いや何億回も生まれ変わって歩みを続けねばなりません。少なくともいま現在のこの一生において仏になることはできません。大乗仏教ではそのように考えられています。
 そうだとすると、『法華経』に登場する常精進菩薩は、われわれのお手本とすべき菩薩です。わたしたちも常精進菩薩に倣(なら)って、仏道を常に精進して歩まねばなりません。
 ところが、問題は、どのように精進するかです。精進とは努力です。わたしたちはどのような努力をすればよいのでしょうか。
 努力といえば、現代日本人はすぐに「がんばる」ことを考えてしまいます。みんな口を開けば、「がんばれ! がんばれ!」と言います。
 しかし、仏への道ははるかに遠いのです。わたしたちが一生かかっても到達できない長距離です。そんな長距離をがんばるならば、わたしたちは息切れするにきまっています。だから、がんばってはいけないのです。
 がんばらずに、ゆったりと道を歩んで行く。疲れたらすぐに休みましょう。走ってはいけません。のんびりと歩く。それが常に精進を続けるための秘訣です。
 がんばらない菩薩-。それがわたしたちが仏道を歩むときのお手本になる菩薩です。わたしはそのように考えています。

カット・酒谷 加奈

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