天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第61号

開宗1200年慶讃大法会が円成
3/30 半田孝淳天台座主猊下を導師に総結願奉告法要

 五カ年に亘る開宗千二百年慶讃大法会事業も去る三月三十日の「総結願奉告法要」厳修をもって円成の運びとなった。総登山・総授戒『あなたの中の仏に会いに』をスローガンに進められ、登叡した檀信徒は五万人を越え、特別授戒会では、三万人以上が戒を授かった。開宗千二百年慶讃大法会円成の成果を礎として、天台宗は 宗祖大師のみ教えの敷衍に新たなスタートを切ることとなった。

 平成十五年四月一日に始まった天台宗開宗千二百年慶讃大法会・五カ年の期間中、様々な法要・事業が展開された。檀信徒の「総登山」「総授戒」を軸に、平成十七年十月の一カ月に及ぶ「開宗千二百年慶讃大法要」、宗教協力では、「比叡山宗教サミット二十周年記念『世界宗教者平和の祈りの集い』」、ニューヨーク別院・インド禅定林への「海外寺院支援」、広島・鹿児島・沖縄での「三県特別布教」、「一願一行」、「明日の天台宗」「天台宗檀信徒手帳」などの記念出版、特別展覧会「最澄と天台の国宝」(読売新聞社主催)など、多岐に亘っている。特に平成十七年の「開宗千二百年慶讃大法要」では、十八日間に亘り、天台宗に縁のある二十六宗派・教団による慶讃大法要が営まれたほか、伝統芸能など慶讃行事も数多く奉納され、祖山は宗祖伝教大師を讃える報恩感謝一色に染まっていた。
 また、平成十八年一月二十六日の「開宗千二百年祥当法要」は全国から参集した百八十名の天台僧出仕もと、渡邊惠進第二百五十五世天台座主猊下を導師として厳かに修せられた。
 そして本年三月三十日、全教区から結集した次代を担う若き僧侶の出仕のもと、半田孝淳第二百五十六世天台座主猊下を導師として「開宗千二百年慶讃大法会・総結願奉告法要」が奉修され、五カ年に亘る開宗千二百年慶讃大法会は無魔円成を迎えた。
 なお、大法会結願の奉告のため、五月末に半田座主猊下を名誉団長とする訪中団も企画されており、天台宗は新しい歴史を刻み始めることになる。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

だが子供のぼくは、そういうものを火に焼いて喰う父を、どうかしていると思う気持ちがつよく、貧乏人の子のくせに、はずかしいことのように思ったのを偽れない。

 水上勉 「土を喰ふ日々」文化出版局

 「そういうもの」というのは、山の中に芽吹いている山菜のことです。水上さんの父は大工でしたが、時に木挽きの手伝いで山に入ることがあり、幼い水上さんもついて行ったのです。
 電動ノコギリなどのない時代でしたから、木挽きは大木に、かまぼこ形の巨大なノコギリをあてて、ゆっくりと挽くのです。重労働です。
 昼時になると、父は三十分ほど山の中へと入っていって、山菜やキノコをとってきて、おき火を寄せて焼いて食べたといいます。
 父の弁当箱には、味噌と塩と飯が入っており、それらを惣菜にするのです。水上さんは、父が山ウドを器用に剥いて、味噌をつけて食べるのを見ています。
 タラの芽を、ぬれ紙に包んでよく焼き、ご飯の上においたものは、ほこほこと湯気がでていました。
 添加物や農薬に汚染された食物を日々口にしている私たちにしてみれば「何と素晴らしいおかずだろう」というでしょうが、それは豊かになった今の人の勝手な感想です。
 水上さんは、他の木挽きたちが、鮭や鰯や金のかかる菜を入れてきているのに「父だけが、うどに味噌をつけたり、木の芽を蒸して喰う姿」を子供心に「哀れに思った」といいます。
水上さんは「その気持ちは今もある。不思議なことだ」と書いています。
 その思いは、幼い頃、貧であった境遇によるものです。土の幸を軽んじて、都会の人工的な食べ物に憧れることを「豊か」だと感じる気持ちが今もあることを「不思議だ」というのです。その心の裏側には、父にせめて他の木挽きたちと同じように、魚のついた弁当を食べてもらいたかったという思いが強く感じられて胸打たれるのです。

鬼手仏心

つひにゆく道  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 世の中一寸先は闇だと言うが、人は、そんなことを思って一分一秒生きているわけではない。ただ、どうも心構えとして時々思い出す必要があるようだ。
 突然の事故、災難は平穏な日常を破壊する。つい先ほどまで何ら変わらない日常が続くと思っていた人々が、底知れぬ悲哀の状況に突き落とされる。昨年も今年も、そんな悲しみの場面を幾つも幾つも見せられた。
 わけても運命の不思議を感じるのは、ほんのちょっとした判断・選択が生死を分けることだ。
 何年か前の鉄道事故でも、煙草を吸いたいために車両を代えて助かった人、安全を願って車から列車にしたために亡くなった人がいたということを聞いたことがある。もうこれは、運命としか言いようがない。
 在原業平につひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしをと言う歌がある。普通人間の心持ちはこんなところであろう。いつかは死ぬ運命にあるのだが、その時が今であるとは、つゆ思わない。そして、日々の暮らしは当然のことで、有り難みも感じない。
 だが、九死に一生を得て、死の淵から生還した人の「何気ない日常ほど素晴らしい時はない」という言葉がある。 当たり前のように繰り返す日々の暮らし。子ども達の楽しげな声、人々の行き交う雑踏、公園でのお年寄り達の会話、若者達の華やいだしぐさや表情…。
 そういえば、長い間戦闘に巻き込まれてきた地域の人々はこう言っていた。「唯一の願いは、ただ普通の暮らしを取り戻したいだけです」と。
 「日本人は水と平和はタダだと思っている」と評されたことがある。平穏な日常がいかに得難く、素晴らしいものであるか、感謝しながら日々を生きてゆきたい。

仏教の散歩道

草を食べない死んだ牛

 息子を亡くした長者がいました。
 長者というのは大資産で、帝王をしのぐほどの財産を持っていました。彼はその財力でもって、毎月の息子の命日には近隣の人々に山海の珍味を供養します。
 と同時に、亡くなった子どものためにも、山海の珍味をお供えします。だが、いくら供えても、死んだ息子はそれを食べてはくれません。
 死者が実際に食事ができないのはあたりまえですが、長者にはそのあたりまえが分からず、
 「ああ、悲しいことだ」
 と嘆いています。
 そして、かれこれ一年が過ぎました。ある日、小さな男の子が牛を引いて、長者の邸の前を通りかかります。ところが、その牛が邸の前でばたりと倒れて死んでしまった。
 すると、男の子はどこかに走って行き、青草を持って来ます。その青草を牛の口先に突き付けて、
 「さあ、食べろ。食べろ」
 と言いました。でも、死んだ牛が草を食べるはずがありません。すると小さな男の子は、
 「なんで食べないのか?!」
 と大声を出し、杖でもって死んだ牛を叩くのです。
 邸から長者が出て来て、その光景を見て、
 「なんでそんなに牛を叩くんだ?! 死んだ牛が草を食べるはずがないことぐらい、おまえには分からないのか?!」
 と、子どもに忠告をしました。
 すると、その子どもは笑いながらこう言うのです。
 「ぼくの牛は死んだばかりです。死んだばかりだから、ひょっとしたら生き返るかもしれませんよ。でも、長者さん、あなたの息子さんは一年も前に亡くなったのでしょう。その息子さんがお供えの食事をしてくれないと言って、あなたは嘆いています。あなたとぼくと、どちらが愚かなんでしょうかね」
 長者はその言葉に目が覚めました。
 「きみは賢い子だね。どこの子どもなんだい?」
 「お父さん、じつはぼくは死んだあなたの息子です。ぼくは死んだあと、天上界で幸せに暮らしています。それなのに、お父さんやお母さんはいつまでもぼくの死を悲しんでいます。あんまり気の毒なので、こうしてぼくが訪ねて来たのです。どうかあまり嘆き悲しまないでください」そう言ったあと、男の子は牛とともにどこかへ消えてしまいました。
 『雑譬喩経』(ぞうひゆきょう)という経典に出てくる話です。
 死んだ子どもが天上界やお浄土で幸福に暮らしている。それを信じてあげるのが、死者に対する最大の供養ではないでしょうか。
 わたしはそう思います。

カット・酒谷 加奈

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