天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第9号

天台宗全国一斉托鉢始まる
- 心の田を耕す -
 今年も、寒風の中を天台宗の全国一斉托鉢が始まった。
 托鉢は、行乞(ぎょうこつ)ともいわれる。
 インドでは出家した男性を比丘、女性を比丘尼というが、その意味は「乞(こ)う人」で布施によって生活する人のことである。
 釈尊が、マガダ国で、田を耕していたバラモンに食を乞われると「人に頼らずに、自分で田を耕して食え」と罵倒された。その時に釈尊は「我もまた田を耕すものなり」と言われたのである。それは、心の田を耕すという意味であった。
 「信仰が種子である。苦行が雨である。智恵が農具である。恥ずかしいと思う気持ちが鋤棒である。そして人々の心を耕し、あらゆる苦悩からの解放という実をみのらせるのだ」。
 この中で釈尊は、また「体をつつしみ、言葉をつつしみ、過食をしない」とも言われ、托鉢とは単に食を得る行為ではなく「少欲知足」を実践し、人々に布施をさせる尊い行為であると語られた。今も、仏教国のタイやラオスでは、喜捨する人々の方がへりくだっている光景が見られる。
 今、天台宗が展開している全国一斉托鉢は、国内外の弱者救済のために行うものだ。僧が自らの食を乞うという形からは少し離れる。しかし、釈尊が説かれた心の田を耕すという意味では、なんら変わりがない。
 それは、あなたの心にある仏心を耕すことであり、また私の仏心を耕すことである。
 執着を捨て、他者の幸せを祈るみ仏のこころに添うよう努めてゆきたい。
 毎年、決まった場所で待っていてくれる方がいる。恥ずかしそうにして募金箱にいれてくれた少女がいる。お米を下さる方がいる。多額の浄財を下さった老夫婦もいる。
 その暖かいこころに、私たちのこころを添えて、待っている人々に届けたい。
 人々のために托鉢をすることによって、我もまた田を耕すものでありたいと思う。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 その人たちに生命をあたえたものは風
 いま私たちの口から出てくるものも風
 風がくれた生命
 その風が止むとき、私たちも死ぬ
 いまでも指の皮の中に風の吹く道が見える
 わたしたちの祖先がつくられたとき
 風がどこで吹いていたかをそれは教えている

「アメリカ先住民ナボバ族の癒しの詩」

 メキシコ・アメリカに長期滞在し、現在日本で、「エンパワメントセンター」を主催する森田ゆりさんの著書『エンパワメントと人権~こころの力のみなもとへ~』の中に出てくるこの詩。
 インディアンの子どもたちは思春期になると、砂漠や山の中へ出かけ、たった一人で時を過ごす。三日後彼らは自分の内にある大切なものを発見して帰ってくる。人は女だろうと男だろうと、障害があろうと、少数民族だろうとみなそれぞれ個性の輝きを必ずもっている。
 そして、自分の内的な強さ、輝き、すばらしさは自分だけではなかなか気づけないものだ。彼らは、大自然と向き合うことで輝きをしっかりと発見する。自然は人間と違って偏見や期待過剰、えこひいきやいじめなどを一切しない。だから人の内に鼓動するいのちの力を教えてくれるのだ。
 一本の草、一羽の鳥、一匹の狼、すべての人間の魂。すべての生きとし生けるものの魂が聖なる存在なのだ。「聖なる魂」それはインディアンの生命思想を見事に凝縮した深い意味を持つ。
 詩のラストは、指の皮の中に見える道が、祖先に続き、大いなるものに続いていることを示すのである。

鬼手仏心

生きることは   天台宗宗務総長 西郊良光

 釈尊は、この世の苦しみを「娑婆苦」と言われた。
 娑婆とは、私たちが生きている世界である。インドのサンスクリット語「サハー」が中国を経た時に、この漢字があてられたのである。
 サハーとはもともと「堪え忍ぶ」という意味である。すなわち、この世に生きるということは堪え忍ぶことなのである。
 伝教大師も、比叡山に入山するにあたり、その決意を「願文」で次のように述べられている。
 「悠々たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きこと無く………」。
 悠々たるように見えるこの世の中は苦しみばかりであって、安らかな楽しみというものはない、ということである。
 こう言われてみると「人生とは楽しむもの」という風潮に慣らされた現代人には違和感があるかも知れない。しかし、楽しみは一瞬で、この世に生きるということは、苦しいことが多い。それは、ある程度、人生を生きた人ならわかることである。生、老、病、死という「四苦」は避けがたく、愛する人と別れたり、欲しいものが手に入らなかったりする「八苦」は日常茶飯といってよい。
 人は一人だけで生きていけないものである。けれども他者と関係を持てば、持ったで、その関係の中で苦しむのである。それは、人の心に渦巻いている煩悩や欲望による。我執といってもよい。そのことを、はっきり見据えることが肝心だと説かれているのだ。
 釈尊や伝教大師は、己を徹底的に見つめた方であった。であればこそ、こう言われたのである。

ページの先頭へ戻る