新しい流れを作りたい
- 一隅を照らす運動総本部長に就任した壬生照道師 -
「…本当に、私のような者でいいんですか?」
寺にいて、檀家だけを相手に生きてきたわけではない。天台宗の僧侶としては、型破りだとの自覚がある。
地元の飯田女子高校を、校長で定年退職したのが平成十年である。「そこで、ヒラ教諭を十年、学年主任を十年、教頭十年、副校長四年、校長四年、しめて三十八年の勤続」。同高校は、浄土真宗が運営する私立高校である。さぞ、やりにくかったと思うが「そんなことはない。元をただせば、みなお釈迦様。だいたい、狭いセクト主義を意識していたら、いい仕事はできない」。その主張の結果を、校長就任で裏付けた。
「じっと、椅子に座っているのが大の苦手」。校長室には、ほとんどおらず、職員室で後輩教師と話すか、庭木の手入れをしていた。「今は、教師もちゃんと見ていないとノイローゼになる。庭にいて授業をサボった子を見つけると、叱るのではなく、雑談しながら悩みを聞いていた」という「一風変わった」校長先生であった。「自分が校長時代に、退学処分にした生徒はひとりもいない」。
教師になりたての頃はソフトボール部の監督。全国大会寸前まで行って敗れる繰り返しだった。
「そのころの壬生先生は怖くて、話しかけられなかった」という証言がある。今も六十四歳にはとてもみえない眼光である。「怒る時は、ためらわない。計算もしない。ただ年を重ねるにつれて色々なものが見えるようにはなった。けれど、丸くはなっていないつもり」。
地方行政の長である宗務所長を四年務めた。一隅運動については「西郊宗務総長の意向を充分に聞いてから」と前置きしつつも「地方で見ていても、マンネリ。信仰運動か社会運動か、という議論は承知しているが、どちらも会員の喜びとならなくては、意味がない。中央か地方かということよりも、私は新しい血を入れることが必要ではないかと感じている。僧侶だけによる企画運営は、今の時代にそぐわないのではないか」。
「一般社会の人々から、どう見られているかを自覚しなくてはならない。私は、思い切ったことも言うが、そうした裸のつきあいをしなくては心を通じ合うことができない」が持論。
母校の大学から、より好条件で第二の人生を提示されていた。それを蹴っての就任である。決意をさせたのは、今年八月に急逝した茨城教区宗務所長の光栄純秀師との約束だった。天台宗の未来を話し合う同志だった光栄所長は、ことあるごとに言った。「機会があれば、僕は、壬生さんに一隅をやって欲しいな、あなたが適任だよ」。
「そのことがなかったら、おそらく受けていないと思う」。
趣味は山歩きと、キノコ狩り。アウトドアライフの人である。「山道だって寝られるから、当座必要なものだけ車に積んでいけばいいだろう」と、大津市坂本の役員宿舎に十一月一日着任した。国語の教師だったからではないが方丈記を愛読する。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。流れる水は同じではなく、つねに新しい水がながれている。改革に託された任期は二年である。