天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第49号

天台宗開宗1200年記念沖縄特別講演を開催

 天台宗では、開宗千二百年慶讃大法会事業の一環として天台宗の寺院が少ない地域である広島県・鹿児島県・沖縄県への「三県特別布教」を計画、これまで広島、鹿児島の両県で実施してきた。そして、来る七月一日に天台の教えを弘めるスタートとなる特別講演会を沖縄県で開催する。

 沖縄県はその地理的条件からみても、歴史的、文化的な面からみても本土とはかなり異なった地域である。宗教的な側面からみても、祖先崇拝が厚く、独特な宗教儀礼を持つ。かつて薩摩・島津藩の支配下にあった時、僧侶が村々を布教して歩くことも禁じられ、檀家、信徒も形成されなかったこともあって、仏教との関わりは薄い。
 今日においても生活の中での仏教の影はあまり感じられない。   
 こうした宗教事情下の沖縄県において、天台宗としてもなんとか「天台の教え」に対して理解を深めてもらい、縁を繋いでいただきたいと、この特別布教を実施することになった。
 特別講演会は七月一日午後五時三十分より開催される。最初に、天台宗とはいかなる教えと歴史を持ち、宗教活動を行っているかを、映像で紹介する。濱中光礼天台宗宗務総長の主催者としての挨拶や、天台声明の実演が予定されている。声明を初めて聞く人も多いことから、分かりやすい解説もなされる。
 プログラムのメインには、先頃、文化勲章を受章した作家でもある天台宗僧の瀬戸内寂聴師が「忘己利他」と題する講演を行う。
 瀬戸内師は陸奥教区・岩手の天台寺住職時代から、一般の人々を対象に「青空説法」を行い、その法話は幅広い支持を集めている。この講演では、宗祖伝教大師のお言葉「忘己利他」が標題に掲げてあり、日常生活の中で天台の教え、宗祖大師の教えを活かすための、わかりやすい法話になるものと思われる。
 沖縄県において仏教を、そして天台の教えを、今後弘めてていくためには、沖縄の伝統、文化、習俗を尊重しながら、一歩一歩進めることが必要である。この特別布教がその一歩となることを期待したい。
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半田座主 比叡山諸堂を巡拝-御拝堂式-

 三月二日、比叡全山の諸仏諸菩薩諸天善神に天台座主上任の報告を行う儀式「御拝堂式」が、古式ゆかしく執り行われた。
 緋衣・緋紋白金三諦章大五条を召された半田孝淳天台座主猊下は、延暦寺総本堂根本中堂御本尊薬師如来御宝前で、随喜された天台宗・延暦寺内局等とともに薬師経を御奉読され、上任の報告をされた。その後東塔諸堂での御拝堂を終えられ、明王堂へは急な坂道を山駕籠で向われ(写真)、その後西塔・横川諸堂、飯室不動堂、滋賀院門跡内仏殿を御拝堂され、魔事なく「御拝堂式」を終えられた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

かっかと熱した心に勝つのは
静けさなんだよ。
じつに
清く澄んだ静けさが
世の中の狂いを正すのさ。

加島祥造訳 「ほっとする老子のことば」 (老子道徳経第四十五章)二玄社刊

 老子は中国の思想家で、お釈迦さまとほぼ同年代の紀元前五世紀の人だといわれます。その言葉は、とても難解でしたが、加島先生の訳で現代人にもすっと読めるようになりました。なにしろ冒頭の詩も、分かり易く訳したといわれるものでも「静けさは動きに勝る。寒さは暑さに勝る。静けさは天下の模範となる」という具合で、何だかよく分からないものでした。
 こうして訳されたものを見ると、実に仏教との共通項が多いのに驚かされます。長く人類に伝えられてきたものは、どのような宗教にしろ、思想にしろ、「真実」を含んでいるからでしょう。
 現代は、本当に「かっかと熱して」います。人々は、分刻みのスケジュールで忙しく働き、氾濫する情報の海で溺れています。また利害得失を巡って争い「かっかと熱して」戦争を引き起こし、殺し合っています。
 お釈迦さまは「怒らないことによって怒りに打ち勝て。善いことによって悪いことに打ち勝て」と教えられ「ことわりをあるがままに知ったなら、寂静という最大の楽しみがある」と示されています。

鬼手仏心

「やすらへ、花や」  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 桜の季節が巡ってきました。花、と言えば桜。昔から和歌にも数多く詠まれ、日本人にとっては一種特別な愛着を抱かせる花です。
 満開の美しさに見とれているうちに、早、ひとひら、ひとひら、散り始める時の心落ち着かなさは、歳を経ても一向に変わりません。
 この時期は人の動く頃でもあります。親しい人と別れたり、新たな旅立ちに湧き起こる感傷を桜に託しているのかもしれません。
 「俳句歳時記」で高名な評論家の山本健吉さんによると、日本人が桜の散るのを惜しむ気持ちを持つのは、農耕民族としての信仰を源としているそうです。
 古代の人は桜の散り具合で穀物の豊凶を占った、つまり、花が予定よりも早く散るとその年の収穫にとって悪い前兆だったのです。平安期の始めには、「やすらへ、花や」と謡い、花が散らないように念じ踊った花鎮めの祭り、「鎮花祭」になります。
 「やすらへ」とはそのままじっとしていてくれよ、と言う意味です。その後、疫病や災いを鎮めることに考えが拡がり、今では、京都今宮神社の「やすらい祭り」に受け継がれています。
 私たちの意識下にはこの「やすらへ」の気持ちが刷り込まれていると、いうわけです。
 もっとも、桜を愛で、散ることを惜しむ気持ちに理屈はいりませんが、桜に対する日本人の思い入れの深さに対する一つの解答かもしれません。
 そんなことに思いを馳せながら、お花見に出かけて、桜餅を食し、桜湯をいただくのもなかなか風雅なもんでしょう。
 いえ、満開の桜の下で、ひたすら飲んでいる宴も捨てがたいんですが…、過ぎると風雅を通り越してひんしゅくを買いますからね。

仏教の散歩道

驚きました……

 ある老僧が語られました。仏教の思想、とくに『法華経』の教えについて、わたしと対談していたときです。
 わたしは、『法華経』の教えというものは、
 -すべての人が仏子である-
 というもので、だからわたしたちは自分が仏子であるという自覚を持つべきである、と語りました。その点については老師も同意されました。
 ついでわたしは、一例を挙げたのです。幼稚園の運動会のかけっこで、いちばん後ろを走っていた子が転んでしまった。すると先頭を走っていた子が引き返して来て、転んだ子に、
 「大丈夫?痛くない?」
 と声をかけました。それでかけっこは滅茶滅茶になってしまったのですが、わたしは、転んだ子をいたわってあげた子が本当のほとけの心を持った子だと思います。その子どもこそ仏子の自覚を持っていた。すばらしい子どもなんだ。わたしはそのような発言をしました。
 すると老僧は、「そういう考え方はよくない」と言われた。びっくりしましたね。なぜかといえば、転んだ子は自分の力で起き上がるべきであって、甘やかしてはいけないというのです。
 「現代日本の社会は、そんなふうに子どもを甘やかしているから、ひ弱な子どもになるのです。どんなに苦しくても、がんばらないといけない。すぐに子どもを甘やかすような、いまの教育は間違っている」
 そんなふうに血相を変えてまくしたてられました。挙げ句の果ては、ご自分の軍隊経験を語られた。自分は軍隊でさんざんに殴られたけれども、ちっとも殴った人を怨んでいない。そういう殴られた体験がいまの自分をつくってくれたのだと、むしろ殴った人に感謝している-と、そこまで言われたのです。
 驚きました。びっくりしましたね。
 いえ、ご自分がどのような思想・信条を持たれてもいいのです。いかなる政治的信念を持たれてもよい。軍国主義者であってもかまいません。けれども、自分の思想・信条・信念を、それが仏教の教えであると言い包めることだけはやめてほしい。わたしはそう思います。
 仏教の思想を語るときには、それを自分の主義主張・信念によって歪めてはなりません。仏教の思想は、仏教の思想として語るべきです。たとえ、転んだ子に同情するのはよくないと考えたとしても(わたしはそうは思いませんが)、転んだ子に「大丈夫?痛くない?」と声をかけてあげる子どもの仏性(ほとけの心)を否定するのはおかしいのです。そのやさしさこそが仏の心であり、そういう子が仏子なのです。
 どうも日本の僧侶のうちには、仏教の思想ではなしにご自分の信念を語られる人が多いですね。困ったことだ、とわたしは思います。

カット・酒谷 加奈

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