=誰を助けるのか?=
インドの民話に、こんな話があります。
三人組の泥棒が捕まりました。昔のことだから、当然、三人ともが死刑になります。
しかし、王さまは一人の女性を呼び寄せて、
「三人のうち、おまえが指名する一人を助けてやる。おまえは誰を助けたいか………?」
と問いました。じつは三人組の一人は彼女の夫で、もう一人は彼女の息子、残りの一人は彼女の弟です。ですから、夫か息子か、それとも弟か、彼女は誰を助けたいのかを尋ねられたわけです。
さて、あなたであれば誰にしますか?
このインドの女性は、
「王さま、それであれば、どうか弟を助けてやってください」
と願い出ました。いささか意外な指名ですね。
「普通であれば、夫か息子の命を助けたいと思うはずなのに、なぜおまえは弟を助けたいのか?」
ちょっとびっくりした王さまは、女性に尋ねました。
「簡単なことです。かりに夫が処刑されても、わたくしが再婚すれば新しい夫が出来ます。そして、その新しい夫とのあいだで、息子もつくることができます。けれども、王さま、わたくしの両親はすでに亡くなっています。ですから、弟の代りをつくるわけにはいきません。それで、弟を助けてほしいとお願いしたのです」
「なるほど、なるほど」
女性の説明に、王さまは納得がいきました。そして、王さまは言いました。
「いや、おもしろい。それじゃあ、三人とも釈放してやろう」
かくて、彼女は三人の命を助けることができたのです。メデタシ、メデタシ。
で、これでインドの民話は終わりですが、いかがですか? みなさんはどう思われますか………?
わたしはへそ曲がりなもので、この結果をもって「メデタシ、メデタシ」と言いたくありません。反対に、わたしに言わせるなら、この女性は地獄に堕ちたと思いますよ。
なぜなら、釈放された夫は妻に、
「おまえは俺よりも弟のほうが大事なんだな………。それじゃあ、弟と一緒に暮らせ!わしはおまえと離婚する」
と言うでしょう。そして息子も、
「お母さんは、ぼくよりも叔父さんのほうが大事なんだね。ぼくなんか、どうだっていいんだね」
と、母親を怨むでしょう。そして、家を追い出された女性を、弟が引き取ってくれるかどうか、これはわかりませんね。弟だって、
「そりゃあ、姉さんが悪い」
と言うかもしれません。下手をすれば、彼女は路頭に迷うでしょう。
では、彼女はどうしたらよかったのでしょうか………?
=分別智ではなく無分別智=
仏教は「智慧の宗教」です。智慧を持ちなさいと教えています。
しかし、その智慧は、「分別智」であってはいけない。「無分別智」でなければならないのです。
分別智というのは、わざわざ分別する必要のないものを分別して、「どちらがいいか?」と判断するような智恵です。一休さんにまつわるこんなエピソードがあります。
あるとき、小坊主の一休さんは、
「坊やは、お父さんとお母さんの、どちらが大事だと思うか?」
と質問されました。すると彼は、持っていた煎餅を二つに割って、
「おじさん、この煎餅、左と右のどちらがよりおいしい?」
と訊き返したのです。一枚の煎餅を二つに割って、「どちらが………?」と考える必要はありません。同様に、両親をわざわざ父と母に分解して、「どちらが大事か?」と問うのはナンセンスです。一休さんはそのことを教えたのです。
そして、これが分別智です。両親を二つに分別した上で、「どちらが…?」と考える智恵です。仏教は、そんな分別智ではなく、無分別智を持てと教えています。両親は両親のままにするのです。
では、王さまが、夫か息子か弟か、いずれか一人だけ助けてやると言われたら 、女性はどうすればいいのでしょうか………?
「いいえ、王さま、わたしには三人から一人を選ぶなんてことはできません。それでしたら、三人とも殺してください」
そう答えるのも無分別智です。あるいは、
「ついでに、わたしも一緒に死にます」
と言ってもよいでしょう。
しかし、誰か一人は助かるのです。三人とも死ぬ必要はありません。そうすると、こんな方法が考えられます。
「王さま、ここにサイコロが二個あります。このサイコロを振って、出た目が三で割り切れたら夫を、三で割って一が余ったら息子を、二が余ったら弟を助けてやってください。わたしには選べませんから、サイコロで決めてもらいます」
すると王さまは、「そなたはなかなかおもしろい女だな。よし、三人とも釈放してやる」と言うかもしれません。そうすると、本当にメデタシ、メデタシになります。
これが仏教の教える無分別智です。