仏道とは--正しく生きると見つけたり
早稲田大学名誉教授、文学博士、天台宗勧学と近寄りがたい肩書きだが、話し始めると、いたってざっくばらんな性格である。
栃木県日光市生まれ、日光輪王寺一山の照尊院住職だが、大学勤めの関係で東京暮らしが長かった。大学紛争華やかな頃は、早稲田大学文学部の教務主任(のちに学部長)だった。全学連との団交で、吊し上げられ、もみくちゃにされながらも「できないことは、できない」と突っぱねる。当時は、五十歳。その時の硬骨漢ぶりは、今の温厚な風貌からはなかなか想像出来ない。
「学生運動が反面教師となって、一生懸命に勉強する若い人たちが出てきた。その意味では価値があったかもしれない」という根っからの学窓の人である。
妙法院には福井康順師(元大正大学学長)、大久保良順師(同)、そして今回の菅原門主と学問の世界からの就任が続く。「そのことが、研究者の励みとなれば」という言葉の裏には、必ずしも学問を志す人々が恵まれていないという義憤がある。自身も三十五歳までは、身分も、経済も不安定な非常勤講師だった。
「長女が、小学校に入学する年に、早稲田の専任講師になって、やっと生活が安定した。家族には、本当に苦労をかけた」。
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「神仏習合」の権威である。日光そのものが、神と仏の同居地である。子どもの頃から、その世界を見て育った。「一般的に、ひとつの宗教中に、他の宗教が入ってくると、追いだそうとするのが普通。それは、今の世界を見れば一目瞭然です。しかし日本は神と仏が一緒になって信仰されている」。
興味を覚え、調査研究を始めたが、資料はあまりない。神仏習合の宝庫である日光でも、それまで研究した人はいなかった。
「戦前は、そんなことを軽々に言えなかった。徳川家康を、天海大僧正は『東照大権現』として日光に祀る。東照大権現という名は、東に照る、すなわち太陽のことだと思いついた。太陽は動いて天の真上に来る、すると天照ということになる。天照大神は天皇家の祖先だから、天海は遠慮して東照とつけてはいるが、腹の底では天皇家に代わって徳川家が天下を支配するという意味を持たせている。
そのような説を発表したのが昭和三十年。終戦後十年経っていましたが、それでも怖かった」。
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妙法院での活動はどのように展開されるのか。
「宗門の発展と教学の振興ということになります。若い研究者が安心して勉強できる環境を整えたい。また私は、仏者というのは、正しく生きるということだと思っている。他の人から非難されないよう心がけてゆきたい」。
日光の自妨・照専院は寛永十三年の建立になる。東照宮を尊ぶという意味で天海大僧正が命名した。日本で、ただ一つの寺名である。今、この由緒ある寺院を譲り、京都への引っ越しに追われている。
「京都は歴史の宝庫だから、研究もしたいのですが、時間があるかどうか。京都の底冷えも心配です」。