=中くらいが一番いい=
子どものころは、指折り算えてお正月を待っていました。しかし、古希に近い年齢になったいまは、あの感激はありません。
目出度さも中くらい也おらが春
江戸後期の俳人の小林一茶はそんな句を詠んでいます。彼の心境がよくわかるこのごろです。
ところで、ここで言われる「中くらい」ですが、これは仏教が教える、
-中道の精神-
ではないでしょうか。これを「たいしたことはない」といった意味に解釈すれば、きっと一茶は怒るだろうと思います。なにもかもが順調にいって、うはうは大喜びをする。現代日本人はそれを「めでたい」と考えていますが、それは欲深いのです。そんな考えでいると、結局はなにもかも失ってしまうはめになるでしょう。そうではないのだよ、「中くらい」がいちばんいいのだよ。一茶はそう言いたかったのだと思います。
そして、それこそが仏教のいう「中道」です。
「中道」というのは、極端を避けることです。たとえば大学生がパチンコばかりして勉強しないのも極端ですが、逆に体をこわすまでのガリ勉も極端です。そのような極端を避けて、ゆったりと楽しくするのが中道です。
そこでわたしは、この中道という語を、
-がんばるな!-
といった言葉に置き換えてみたいと思います。というのは、日本人はいま、あまりにもがんばっているからです。がんばりにがんばって、もうへとへとになっています。自殺者の増加も、あまりにもがんばった結果だと思われます。日本人は仏教に学んで、もっとゆったりと楽しい毎日を送るようにすべきです。そうすれば、きっと笑顔を取り戻せますよ。街で見る日本人の顔に笑顔がありません。本当に暗い日本になってしまいました。残念でなりません。
=がんばってはいけない=
がんばるといった言葉、本当はあまりいい言葉ではありません。辞書(『大辞林』)を見ると、
他の意見を押しのけて、強く自分の意見を押し通す。
苦しさに負けずに努力する。
ある場所に座を占めて、少しも動こうとしない。
と、三つの意味があるとされています。
まずですが、こんな話があります。イスラム教の開祖のムハンマド(日本ではマホメットと呼ばれていますが、ムハンマドが正しいのです)が、遠くにある山を近くに呼び寄せるといった奇蹟をやってのけると宣言しました。そして彼は山に向かって、「こっちに来い!」と三度命じました。だが、山は動きません。するとムハンマドは、山に向かって歩いて行ったのです。
これが奇蹟です。遠くの山がこちらに来ないのであれば、こちらが近づいて行けばいいのです。わたしたちは、人間関係がうまくいかない相手に対して、相手のほうから俺に近づいて来い、と思っています。そして自分は動かないで、じっとがんばっているのです。それじゃあ、人間関係はよくなりません。ムハンマドのように、山が動かなければ自分が動けばいい。そうすると奇蹟が生じるのです。
だから、がんばってはいけないのです。
次にの「がんばる」です。われわれは自分の意見が絶対に正しい、他人の意見はまったくまちがっている、そう考えてがんばります。このがんばりもよくないですね。
なぜなら、たいていの意見は灰色なんです。われわれは自分の意見は白色で百点、他人の意見は黒で零点と思っています。すなわち「白か黒か」といったふうに考えるわけですが、それはおかしいのです。自分の意見は灰色で七十八点、相手の意見も灰色で、七十五点、それぐらいの差しかないのです。そうであれば、自分の意見に固執してがんばる必要はありませんね。いや、がんばってはいけないのです。
最後にの意味での「がんばる」です。
わたしたちは苦しさに負けずにがんばることがいいことだと思っています。そういう意味で「がんばれ!がんばれ!」と激励するのです。
でも、どうして苦しさに負けてはいけないのですか?!苦しさに負けずに闘うことが、それほどいいことなのでしょうか…?!
たとえば、良心的な医者はがん患者に、がんと闘うな!と言っています。がんは本来、緩やかに進行する病気なんです。だが、患者ががんと闘えば、体力を消耗してがんが急速に進行し、患者は苦しむことになります。わたしたちはがんと闘うのではなしに、がんと仲良くしたほうがよさそうです。
それはがんだけではありません。貧乏と闘って金持ちになろうとがんばるより、わたしはむしろ貧乏と仲良くしたほうがいいと思います。清貧を楽しんだ高僧は、日本の仏教史に数多くいるのです。
おわかりになりますよね、仏教の中道の精神は、「がんばるな!」なんです。ゆったりと、のんびりと生きましょうよ。笑顔を取り戻しましょう。わたしはそのように提案させていただきます。