ヘブライ語には所有する(英語だとhave)といった動詞がないそうです。なぜかといえば、この世界に存在するすべての物の所有者は神であって、人間には所有権がないのです。そうすると、たとえば日本語でわたしは、時計を持っていますといった文章は、ヘブライ語だと、
この時計はわたし(の使用)に向けられている
となります。そういうことを前島誠氏が書いておられました(『春秋』二〇〇二年十二月号)。
おもしろいですね。この世に存在するすべての物は神のものであり、人間には所有権がなく使用権しかありません。あるいは人間は神のものを一時的に預かっているのです。そのように説明してもいいでしょう。
じつはこの考え方は、わたしは仏教にも通じるものだと思います。というのは、『法華経』の「譬喩品」において、釈迦仏が、
《今、この三界は皆、これ、わが有なり。
その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり。》
と言っておられるからです。この宇宙(三界)は釈迦仏の所有に属します。そして、われわれはみんな釈迦仏の子なんです。それが仏教の見方なんです。
わたしは、いつか講演会で、
「昔の人は、子どもはほとけさまから授かるものだと考えていました。この子は観音さまから授かった子だ、とそんなふうに言っていたのです」
と話しました。すると、ある女性が、
「先生、子どもはほとけさまから授かるのだということはよくわかりました。しかし、授かった以上は、子どもは親のものなんでしょう…?」
と質問されました。つまり、子どもの所有権を主張されたのです。あれにはびっくりしましたね。
親に子どもの所有権を認めると、親は子どもを自分の好きなように育てようとします。そうすると子どもは不幸になります。
子どもはみんなほとけの子です。『法華経』はそう説いています。だから親は、子どもをほとけさまから預かっているのです。所有権は仏にあってわたしたちには所有権がないことをしっかりと銘記する必要があります。
子どものうちには、勉強の好きな子もいれば、嫌いな子もいます。あるいは、ハンディキャップのある子もいます。勉強の好きな子は、勉強が好きなままその子を幸せにしてあげる。それがほとけさまから依託されたことでしょう。反対に勉強の嫌いな子は、勉強が嫌いなまま幸せにしてあげるのです。無理に勉強が好きな子にさせる必要はありません。
目が見えない子は目が見えないまま、自閉症の子は自閉症のままで幸せにしてあげる、それがほとけさまの望んでおられることではないでしょうか。わたしはそう思うのです。