平和への願いひとつに 比叡山宗教サミット16周年
- ユダヤとイスラム -
昨年は十五周年として、特にイスラムの宗教指導者を招聘し、9・11テロによって世界に蔓延した「イスラムへの誤解と偏見」を払拭し、共に世界平和を目指すことが確認された。しかし、その後もイラク戦争にみられるように憎悪の対立は収まっていない。
ハイテクの近代兵器に対抗してローテクの自爆テロという「戦争」は、泥沼化している。宗教の対立や文明の衝突と識者は分析するが、世界宗教と呼ばれるどの宗教宗派の神仏も殺人をはっきりと否定している。それなのに、今、世界は互いの神に「相手の殲滅」を祈願しているようにさえ見える。
今回のサミットでは、特に前イスラエル首長ラビのイスラエル・メイール・ラオ師とパレスチナアラファト議長宗教顧問のシェイク・タラル・シデル師を招き、平和の祈りと対話を行った。現在の中東情勢を考えるとき、ユダヤ教の代表者とイスラム教の代表者との出会いと対話は、まさに画期的なことである。
そして、更に樋口美作日本ムスリム協会名誉会長から平和についての提言を聞いた。普段では、あまり聞くことのないイスラム側からの提言である。
<b>樋口美作日本ムスリム協会名誉会長提言(要旨)</b>
<hr size=1> 私達ムスリムの共通の願いは、来世において楽園が約束される事でありこれが究極の平和であります。その為にこの現世をいかに生きるかが大きな課題である。クルアーンの教えに基づくアッラーと自分との直接的な関係の中で、また他人と自分との社会的な関係の中で、アッラーへの絶対的帰依と、人類の社会や文化の多様性を容認し、互いに尊重し合う事は、平和的共存を促す基本的な教えであり正義であると信ずる。
したがって、今日とかく論議をかもしているグローバライゼーションの問題にしても、もしそれが多様性を否定し、単に一国による一極集中的考えを主張するものであるなら、容認し難いものと成るだろう。
今や両極の過激的な人達の主張する神の名による独り善がりの正義によって、平和の大義が侵されつつあると懸念されている。
天台宗開祖の言葉に「宝とは道心ある人」とある。道心とは、社会の平和、人類の幸福のために社会の一隅に(どこにでも)あって尽力すること、であると説かれている。
実は、私はこの言葉を正にイスラームの言う「ジハード」すなわち、刻苦勉励すると言う本義に共通する教えであると思う。半世紀の間、未解決のまま放置されている中東紛争は、パレスチナの人達が起こした紛争ではなかった。私が中東諸国に在住していた時、よく耳にした彼等の言葉は「俺達は何も悪い事はしていない、どの宗教も民族も皆仲良く暮らしていたんだ」と言う事であった。