天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第32号

天台宗開宗1200年慶讃大法会
=慶讃大法要結願を迎える=

 十月一日に開闢した天台宗開宗千二百年慶讃大法会大法要が、同三十一日に結願を迎えた。結願大法要は全国から宗の役職者や教区の代表者約三百七十名が出仕。また、この大法要に併せ、天台宗と延暦寺両内局に加えて天台宗務庁および延暦寺一山寺院住職により法華経の全巻読誦を行い、祖師への報恩の誠が披瀝された。

 一カ月に亘った大法要には天台宗内の各団体はもちろん、比叡山にゆかりの二十六宗派、教団が報恩法要を奉修した。また、伝統芸能など慶讃行事も数多く奉納され、期間中祖山は宗祖伝教大師の遺徳を讃える報恩感謝一色に染まった。
 また大法要期間の五日には、秋篠宮文仁親王同妃両殿下が比叡山に御参拝になり、聖徳太子報恩法要「上宮太子御影供」に御臨席になられた。
 宗祖大師が「すべての人々は平等であり、ほとけになれる」という法華一乗の教えによって天台宗を開かれてから、来年一月二十六日に一千二百年の正当を迎える。法華一乗の教えによって天台宗が開かれて以来、日本の伝統仏教の祖師方の多くは比叡山で修行された。大師のみ教えは天台宗ばかりではなく、日本仏教の一大源流として脈々と流れている。比叡山が日本仏教の母山と呼ばれ、今回の大法要に、多くの宗派、教団が参加されたゆえんである。
 天台宗では、平成二十年までを開宗千二百年慶讃大法会期間と定め、「あなたの中の仏に会いに」をスローガンとして、これまでに檀信徒総授戒や総登山運動を展開している。今回の大法要は、その中でも最大規模の報恩行であった。
 結願を迎えるにあたり西郊良光天台宗宗務総長は「一宗内外の皆さま、大法要にご参加頂いた各宗派、教団の皆さまはじめ、有縁各位のご協力によって大法要が円成されたことは大変ありがたく、宗祖伝教大師の御徳を思うと感無量である。開宗千二百年慶讃大法会は平成二十年までの期間で、記念事業も続く。更に気を引き締めて勤めたい」と語った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 それ、三界は、ただ心一つなり。心、もし安からずは、象馬・七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今、さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。

「方丈記」 鴨長明

 方丈記は「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で有名です。その中にある言葉。「仏の教えでは、この世界というものは心の持ち方一つである、といっている。心がもし、安らかでないなら、象馬、七珍といわれる財宝があっても何の意味もなく、宮殿、楼閣も同じ。今、寂しい一間の庵に住んでいるが、この生活を心から愛している」という意味です。
 人は足し算だけでは幸せになれません。バブルの頃は、競うように土地や物を買い込みました。しかし、他人との際限のない欲望競争では、心の安らぎなど無かったはずです。その後の経済不況下でも物への執着はなかなか捨てられず、それにまつわる悲惨な事件も多くありました。
 しかし、もうそろそろ捨てること、引き算を考えた方がよさそうです。大切なことは自分の中にあります。「ただ心一つなり」という言葉を味わってください。価値の基準を他に求めるのではなく、自分の心の安らぎに置くことが必要です。

鬼手仏心

あなたが大切だ  一隅を照らす運動総本部長 壬生 照道

 
 先頃、こんな広告を目にしました。
 「命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回言われるより『あなたが大切だ』誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける」。
 日本の自殺者は年間三万五千人に上り、家出人は十万人に達しています。また、青少年の殺人については、毎日ニュースで報じられている通りです。その都度有識者の方々が「普段からの会話が重要だ」「学校へナイフを持ってこないように指導すべきだ」などの論評をされます。それは、間違ってはいないと思います。
 しかし、私はなぜかしら小石が入った靴を履いているような違和感を感じてしまうのです。
 今夏に開催された、宗教サミット十八周年記念行事のシンポジウムで、奈良康明駒澤大学学長が「マザーテレサが『愛(仏教なら慈悲)の反対は憎しみではない。それは無関心です』と言われていることに深い衝撃を受けた。今の我々は他者が悲惨な状況におかれていても、あまりに無関心でいるのではないか」と述べられました。
 傷ついた心は敏感です。通り一遍の白々しい一般論や、その場限りの言葉などの「無関心」にはそっぽを向いてしまいます。いや、かえって逆効果になってしまうでしょう。大多数に向き合うのではない、ただひとりと真剣に向き合うことです。
 因があれば果があるとは仏教の教えるところです。日本は長い年月の因によって今日の果を生じました。この荒廃は今日明日には解決しないでしょう。他者を思いやることから第一歩を始めたいと思います。それは、まず自分自身を大切にすることから始まると思います。

仏教の散歩道

余計な心配

 江戸時代後期の文章家に伴蒿蹊(ばんこうけい 1733~1806)がいます。伴家は近江八幡の商家で、京都と江戸、大坂に店を持っていました。蒿蹊はその主人だったのですが、三十六歳という若さで隠退したのです。もっとも、江戸時代であれば、三十六歳はそれほど若くはないのかもしれません。
 その伴蒿蹊の著作に『近世畸人伝』があります。世に変人・奇人と呼ばれる人たちを評伝したものです。
 その中に、名前はわかりませんが、こんな人物が登場します。
 彼は、山中の人跡絶えたる所に庵を結んで住んでいるのですが、人里に出るには谷川に架けられた橋を渡らねばなりません。山中に住んだ最初のころは、彼は、もしも大水が出て橋が流されてしまったらどうしよう……と、心配ばかりしていました。そうすると、人里に出て食糧が調達できなくなるからです。
 だが、このごろになって、ようやく彼は悟ることができました。
 《我命ある限りは食有べし、食尽るは我が命の終わる時也、とおもひさだめつれば、甚やすし》
 〔自分の命のあるあいだは食糧のあるはずだ。食糧が得られなくなったときが、自分の命の終わるときだ。そう覚悟すれば、すごく心が平安になった〕
 これがその人の悟りです。これを読んで、わたしは非常に気が楽になりました。なるほど悟りとはそういうものか、と思ったのです。
 わたしたちは、未来のことをあれこれと心配ばかりしています。ひょっとして会社をリストラされるのではないかと不安になります。大地震が来たらどうしようと、びくびくしています。がんになればどうしようか、といった心配もあります。
 でもね、リストラされれば、されたときのことではないですか。そのときに考えればいいのであって、毎日毎日あれこれ心配して、そして上司にごまをすって卑屈になって生きる必要はありません。〈なるようになるさ!〉と高をくくって生きたほうが、精神衛生の上でもよさそうです。
 地震に関して言えば、政治家や行政の担当者は万が一に備えて準備をすべきです。われわれは彼らに万が一のときの心配をさせるために税金を払っているのです。われわれが政治家や行政マンを雇っているのです。
 だから、心配は彼らにさせておけばいい。われわれ個人としては、あれこれ心配する必要はありません。山中に住む奇人が、橋が落ちれば死ねばいいと悟ったように、万が一のときは死ねばいいのです。そう思えるのが悟りでしょう。
 もちろん、必要な準備はすべきです。でも、過度な心配、余計な心配はする必要はありません。その意味では「高をくくる」ことが大事です。心配したって、どうにもならないことはどうにもならないのですから……。

カット・伊藤 梓

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