幇間(ほうかん)は俗に太鼓持(たいこも)ちとも呼ばれます。辞書(『大辞林』)によると、
《宴席などに出て、客の機嫌をとり、その席のとりもちをすることを職業とする男》
だそうです。客の機嫌をとるには、おべっかを言えばよい、胡麻(ごま)を擂(す)ればいいのだから簡単なことだ、と思わないでください。なかなかどうして太鼓持ちはむずかしい職業のようで、よほど頭がよくないと優秀な太鼓持ちにはなれないそうです。そういうことを、東京の吉原で太鼓持ちをしていた人から聞いたことがあります。
いえ、太鼓持ちの話をしようとするのではありません。わたしは職業としての太鼓持ちを軽蔑してはいませんが、しかしどうかお坊さんは太鼓持ちにならないでくださいと言いたいのです。というのは、ときどきお坊さんから、
「仏教の教えはよくわかるのです。たとえば、死んだ子が生き返る道理がないのだから、あなたは死んだ子をあきらめなさい、と説くべきだということはわかっています。けれども、殺人犯にわが子を殺された親に対して、あきらめなさいとはなかなか説けません。そういう場合、いったいどのような言葉をかけてあげればよいのでしょうか?」
といった質問を受けます。そんなときわたしは、
〈ああ、このひとは太鼓持ちになろうとしているのだなあ…〉
と思ってしまうのです。もちろん、面と向かってそんなことは言えませんが…。
なぜなら、仏教者が説くべきことは、仏教の教え、釈迦の教えです。殺人犯にわが子を奪われた親の悲しみ、憤り、怨みには同情するべきものがあります。でも、それに迎合して、「あなたの気持ちはよくわかる。あなたが犯人を怨むのは当然だ」と言えば、そのときお坊さんは太鼓持ちになってしまいます。仏教者は迎合してはならないのです。
お釈迦さまは、次のように言っておられます。
《およそこの世において、怨みは怨みによって鎮まることはない。怨みを棄ててこそ鎮まる。これが不変の真理である》(『ダンマパダ』5)
もちろん、われわれは凡夫です。だから被害者になれば、加害者を怨むのはあたりまえです。それゆえ「怨むな…」と教えることはできないでしょう。お釈迦さまの言葉は、泣いている人にとってあまりにも酷(むご)いものです。でも、だからといって、「あなたの気持ちはよくわかる」と言うのはおかしいのです。それを言うくらいであれば、黙っているべきです。
なぜなら、被害者は加害者を怨むことによっては、心の平安は得られません。怨み・憎しみの日をいつまでも燃やし続けていては、心の平安は得られないよ、とお釈迦さまは教えておられます。そのお釈迦さまの言葉が正しいのです。仏教者はそれを忘れてはなりません。