中学や高校の同窓会で、旧友たちと昔の思い出を語り合います。八十近いわたしですから、半世紀以上も過去の話です。そのとき感じるのは、「記憶の個人性」というべきものです。みんなそれぞれに「自分の過去」を持っているのです。だから、みんなの記憶が一致しません。そういうことがよくあります。
イギリスの廷臣(ていしん)であったウォルター・ローリー(一五五二?−一六一八)は、反逆事件に連座して投獄され、獄中で『世界史』を執筆していました。ある日、牢獄の外でちょっとした事件があり、七、八人の囚人がその事件を眺めていた。その直後、囚人たちがいま見た出来事を語り合ったのですが、彼らが見た「事実」はてんでばらばらで、一致しません。それでローリーは、歴史事実の信憑性に疑問を抱いたと伝えられています。
ともかく、記憶というものはあやふやなものなんです。
にもかかわらずわれわれは、自分の記憶にまちがいはないと思っています。兄弟姉妹が集まって過去の思い出を語るとき、一方は過去に自分が施した恩恵だけを覚えており、他方は自分が受けた被害だけを記憶していることがあります。そういうことがあるというより、たいていの場合がそうなんです。自分にとって不利益な記憶は、すぐに忘れてしまう。それが人間の性(さが)でしょう。
だから、嫁と姑の記憶だって同じです。双方がともに自分にとって都合のよいように記憶を改変しています。その上で相手を非難するのだから、処置なしです。
では、どうすればいいのでしょうか?裁判沙汰になるような場合は別にして、近親者や仲間のあいだで過去を話題にしたとき、そこで生じた記憶の違いは、むきになって争わないほうがよいと思います。この点はわたし自身がいつも失敗ばかりしているのですが、じつは「客観的事実」なんてないのです。お互いの記憶を修整すれば客観的事実に到達できると思っていたのはわたしの誤りで、記憶というものはそれぞれの主観ですから、どちらの記憶が正しいというものではありません。どちらも正しいのだし、同時にどちらもまちがっているのです。
その点では、わたしたちは釈迦の言葉に学ぶべきです。釈迦は、
−過去を追うな!未来を求めるな!−
と言っています。そもそも〈俺の記憶のほうが正しい〉と思うことが、過去を追っているのです。
だから、過去に関して記憶の違いが生じたとき、〈どちらが正しいか〉といったふうに考えずに、それ以上、話を進めないほうがよさそうです。でも、これはいわゆる下種(げす)のあと知恵で、いつもいつもあとになってから思い浮かぶ知恵です。それは分かっていますが、はい、この次からはもっと早くに気付くようにしたいと思います…。