天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第142号

祖師先徳鑽仰大法会
 今春からいよいよ第二期へ 記念事業に根本中道大改修

 平成27年4月から、祖師先徳鑽仰大法会第二期として「恵心僧都一千年御遠忌」「伝教大師御生誕一千二百五十年」「相応和尚一千百年御遠忌」「伝教大師一千二百年大遠忌」が、平成34年3月まで7年をかけて執り行われる。

木ノ下内局は、就任以来、延暦寺との両内局会議をはじめ、何度も大法会事務局会議、大法会企画委員会、また同小委員会を開催して多方面にわたる事業案の構築に務めてきた。
 この中で大きくクローズアップされてきたのが、60年ぶりに大改修される根本中堂である。
 「昭和の大修理」と呼ばれた前回の大改修は、4年の歳月を経て昭和30年に完成をみている。今回の大修理は本堂と回廊の屋根吹き替え、また朱色が落剥した柱や天井の塗り直しが中心となる。
 半田孝淳天台座主猊下は「私どもには、宗祖大師が比叡山に入山された折に建立された一乗止観院、日本仏教母山と呼ばれる比叡山の総本堂である根本中堂を、忘己利他、本末一如の精神でのちのちの世まで護り伝える責務がございます」と述べられている。
 木ノ下寂俊天台宗宗務総長も、この根本中堂の大改修を「大法会を通じた記念事業であり、その中心となる柱」と位置づけている。そして、関係官庁と調整が必要なために現在はまだ正確な額は示されていないものの、本山延暦寺も基本財産からかなりの額を負担することを考慮。昨年10月の第百三十一回通常宗議会において「天台宗も改修費を含む大法会の執行予算を宗徒からの義財だけに頼らず、準備資金から毎年2千万円ずつを7年間に亘って拠出する」ことが決議された。
 第二期大法会の総予算は21億7千万円。その編成基本は義財、志納金、寄付金、繰入金という四本柱で行われた。
 そして勧募は宗徒、檀信徒はもとより、広く一般社会にも呼びかけられる。
 大法会予算の主なものは、根本中堂大改修事業に8億円、また、天台学大辞典出版費に2億円、比叡山宗教サミット30周年事業に1億円、叡山学院図書館改修費に4千万円、一隅を照らす運動50周年記念大会助成費1千万円、青少年登山50周年記念大会助成費1千万円、天台宗宝物展費に1千万円等々。記念事業費は4億4千5百万円である。
宗祖伝教大師の御遠忌はこれまで何度も行われてきたが、天台宗として恵心僧都、相応和尚の遠忌を営むのは、きわめて稀である。
 恵心僧都源信は『往生要集』を著し、日本浄土教の祖と呼ばれる。また相応和尚は、比叡山回峯行の創始者である。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 色はただの色ではなく、木の精なのです。色の背後に、一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです。

「一色一生」志村ふくみ

 草木染めでよく知られている人間国宝の染織家、志村ふくみさんに、ある日、見知らぬ人から「染めてほしい」という一本の電話が入ります。家の前にある、百年を超える古い榛(はん)の木を道路拡張のため切らざるを得なくなって切ったところ「切り株から地面をまっ赤に染めて木屑が散っていました。まるで木から血が流れているみたいで、いたましくてじっとしていられない気持ちで」と語り、木の皮を煮出して染めている志村さんのことを思い出して連絡したとのことでした。長年、家を見守ってくれた古木を無駄死にさせたくないとの想いなのでしょう。
 志村さんは、居ても立ってもいられず、すぐ駆けつけると、榛の木の切り株は生々しく、一面に赤茶色がにじんでいました。突然切られたために、幹の切り口からは、溜まっていた樹液が噴き出ていたのです。その色を見た瞬間、「染めてくれるように何百年、黙って貯めつづけてきた榛の木が私に呼びかけた気がしました」といいます。志村さんは、せき立てられるように厚い樹皮を剥ぎ、急いで帰って、釜でその皮を炊き出すのです。
 榛の木は、熱湯の中ですっかり色を出し切ります。釜一杯の液の中に純白の糸をたっぷり浸け、灰汁(あく)に浸けるなど、発色と色の定着の工程を経ると、糸は赤銅色に変わり、あの地面に散った木屑の色となりました。榛の木の精の色です。榛の木がよみがえったのです。何十年と植物を染めてきた志村さんは言います、「榛の木が長い間生き続け、さまざまな事を夢みてすごした歳月、烈しい嵐に出会い、爽やかな風のわたる五月、小鳥たちを宿してその歌声にききほれた日々、そしてあっという間に切り倒されるまで、しずかに、しずかに榛の木の生命が色になって、満ちていったのではないでしょうか」と。植物の染まる色は、単なる色ではなく、色の背後にある植物の生命が色をとおして映し出されているというのです。
 染めは「命を生かす」ことなのですね。

仏教の散歩道

欠点を好きになる

 『三国志』は中国の史書で、魏(ぎ)と蜀(しょく)と呉(ご)という三国が鼎立(ていりつ)していた時代の歴史を書いたものです。その『三国志』に、呉の孫権(そんけん)というリーダーが登場します。もっとも、孫権はちょっと地味な人間です。が、彼は、部下の掌握(しょうあく)に関して、なかなかいいことを言っています。
 -その長ずる所を貴び、その短なる所を忘る-
 これはつまり、部下の長所に目をつけてやり、その短所は忘れてやれ、ということです。
 これを読んだとき、わたしは〈なるほど〉と思い、すべからく人間関係はかくあるべしと考えました。だが、そのあとで、〈待てよ…〉と思ったのです。
 なるほど、会社において部下を管理するためには、長所を貴び/短所を忘れてやる心構えは大事です。また、教育の場において、教師が学生・生徒を指導するとき、この心構えは必要になります。しかし、忘れてならないことは、長所/短所といったものは、世間の物差しで測ったものだということです。世間は世間の物差しでもって人間を評価します。その物差しがないと、部下を管理することもできないし、学生を指導することはできません。早い話が、人間を評価しないで、全員の給料を平等にすれば、それは悪平等になるでしょう。
 しかしながら、家庭にあって、親が子を、夫が妻を、妻が夫を評価してよいでしょうか?そもそも家庭において、親が子を、夫が妻を、妻が夫を管理しているのでしょうか?家族を管理する-といった考え方そのものが、わたしはまちがっていると思います。
 だとすると、家庭の中に世間の物差しを持ち込んではならないのです。部長・課長・係長といった会社のランク付け、54321といった学校の成績評価、そういった世間の物差しで測られたものを家庭の中に持ち込まないほうがよい。昔の親のうちには、
 「学校の先生でつけた点数なんて、わたしは関心ありません」
と言って、成績表を見ない人もいましたが、そこまで極端でなくても、学校の成績だけが人間のすべてではありません。わたしたちはそのことをしっかりと確認すべきだと思います。
 では、どうすればよいのでしょうか?
 家庭にあっては、仏の物差しを使うべきです。そして、仏の物差しとは何かといえば、それは目盛りのない物差しであって、家族の誰をもいっさい評価しないのです。したがって、長所もないし、短所もない。人間のあるがままをすばらしいと見るのが仏の物差しです。
 もっとわかりやすく言えば、家族のあいだでは世間の人がいう欠点を好きになるのです。それが本当の愛情だとわたしは思います。

カット・酒谷 加奈

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