天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第115号

第二十六回世界宗教者平和の祈りの集い
文明と悲劇が交差したサラエボで
内戦、民族浄化から18年。平和、未来、共存

民族、宗教による対立を超える道へ

 一九八六年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世聖下が呼びかけ、聖エジディオ共同体が主催してアッシジで始まった「世界宗教者平和の祈りの集い」の第二十六回目の大会が、九月九日から十一日まで、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにおいて開催された。
 天台宗からは、杉谷義純天台宗宗機顧問を名誉団長とする十八名の公式代表団が参加した。
 代表団は、日本から参加した他の宗教代表者と共に世界平和祈願法要を厳修。また、ボスニア紛争で犠牲となった人々の追悼のため、サラエボ市内にある墓地を訪れて献花、紛争の中で亡くなったイスラム教徒、クロアチア人、セルビア人など、それぞれの冥福を祈った(写真)。 
 スケンデルニャ・メインホールで行われた九日のオープニングセレモニーでは、バキル・イゼトベゴヴィッチ・ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会議長、マリオ・モンティ・イタリア首相のスピーチに続いて、イヴォ・ヨシポヴィッチ・クロアチア大統領、フィリップ・ヴヤノヴィッチ・モンテネグロ大統領らが挨拶。
 十日、十一日は、二十八の会場に分かれて、平和・環境問題、グローバリズム、格差、家族、諸宗教対話、地域的諸問題など、現代世界が直面する課題についてパネルディスカッションが開かれた。天台宗では、杉谷顧問が環境問題について、また、栢木寛照天台宗宗議会議長が東洋におけるアッシジの精神についてスピーチを行った。
 十一日夕刻には、各宗教・宗派で平和の祈りが捧げられた後、ドム・アミエ広場で閉会式が行われ、平和宣言が採択された。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

一人のわたしの一日の時間は、いまここに在る
わたし一人の時間であると同時に、
この世を去った人が、いまここに遺していった
時間でもあるのだ……

長田弘「花を持って、会いにゆく」

 人は誰でもいつか、大事な人を見送ります。
 そうして、大事な人であればあるほど、亡くなった人のことは、いつも心にあります。
 楽しいときも、食事をしているときも、仕事をしていても、一日のうちに何度も、その人のことを思い出し、時に話しかけ、思い出にひたるなどということは、誰もが経験することだと思います。
 話は飛躍しますが、映画監督で脚本家だった故新藤兼人さんは「シナリオを書くとき、書いている最中は人と話をしたくない。シナリオの中の人間たちと話をしたいからである」と書いています。
 「この世を去った人が、いまここに遺していった時間を生きる」私達も、時として現実の人々と話をするよりも、亡くなった人と話をする時間の方が大事だと思う時があります。
 新藤さんは続けて「その人たちと、ばったりと街角などで出会うのである。その人物たちはいつも無言で、暗がりの廊下にいたりする」といいます。
 幽霊に出逢うというのではありません。濃密な関係にあった人の思いや気配が感じられて、ハッとするのです。それを妄想や願望だといってしまえば、それまでですが。
 その時は、悲しいときよりも、嬉しい時の方が多いような気がします。
 数人で食事をしていたとき、一人の女性が突然に泣き出しました。
 「私だけ、こんな美味しいものを食べて、亡くなった人に申し訳ない」というのです。
 けれど、残された人は、できる限り幸せに生きるべきでしょう。
 長田さんの別の詩である「人生は森の中の一日」は、こんなふうに終わります。
 「私たちが死んで、私たちの森の木が天を突くほど、大きくなったら、大きくなった木の下で会おう。私は新鮮な苺をもってゆく。きみは悲しみをもたずにきてくれ」。

鬼手仏心

「羊の丸焼き」 天台宗出版室長 杜多 道雄

 
 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開催された「平和の祈り」に参加しました。
 祈りは素晴らしいものでしたが、食事は、やはり日本食とは違い、バターや香辛料をどっさりと使ったヘビーなもので胃にこたえました。特に食事の最後に出されるデザートは、砂糖をこれでもかとふんだんに使い、ムースをたっぷりと使い、更にチョコレートをかけまわしたケーキで、大いに閉口し、同行した若い職員に助けてもらわねばなりませんでした。
 また途中に立ち寄ったレストランでは、表に羊の丸焼きというものが、ぐるぐる回っておりました。こちらの名物料理ということでしたが、幸いに供されなかったのは有り難いというべきか、残念というべきか。
 こちらでは、羊の丸焼きは名物料理で、結婚式や誕生日などめでたい時には、家族で一頭買い求めて料理するのだといいます。日本なら、尾頭つきの鯛に匹敵するものでしょうか。
 現地の人は「羊にはムダがない」といいます。毛は刈って売ればいいし、乳はチーズになる、身は食べてしまうからです。草原では羊飼いの姿も見ました。彼らは携帯電話も時計も関係ない生活をしているのだと聞きました。中世そのままの生活です。普段あくせく悩んでいる自分の生活と比べてなんという違い。
 羊の丸焼きはレストランの実演場所で回っていました。日本では手打ち蕎麦などを実演するガラス張りのコーナーが店内にありますが、ちょうどあの感じです。
 残酷という者もいましたが、日本人だって「踊り食い」といって、魚を生きたまま食べます。彼らからみればよほど残酷に見えることでしょう。

仏教の散歩道

コミュニケーション能力

コミュ力(りょく)といった言葉があるそうです。昨今は変に言葉を略しますが、これもその一つで、「コミュニケーション能力」のことだそうです。
 で、ある新聞社が特集記事のために、
 コミュ力を高めるための方法
 を教えてほしいと電話してきました。わたしはいつもながらの逆説で、
 「そもそも人間の言語というものは、情報伝達のためのものだとは言えない」
 と答えました。電話をしてきた記者は、目を白黒させていました。あれっ、電話では顔の表情は分かりませんね。
 動物の言語は、情報を伝達する役割をします。「敵が来たぞ」「あそこに餌があるぞ」と仲間に教える。そのための言語です。
 だが、人間の言葉は、必ずしも情報伝達のためのものではありません。なぜなら、人間には仲間と敵があるからです。仲間には正しい情報を伝えたいが、敵に対しては偽りの情報を伝えたい。それが人間の言葉と動物の言葉の大きな違いです。
 とくに現代の日本の社会は、激烈なる競争原理が支配しています。競争原理というものは、要するに、
 自分は勝ち組になりたい。そのためには、あんたに負け組になってもらわねばならない
 というものです。そうすると、会社の同僚は仲間ではなしに敵になります。
 そのような競争社会においては、コミュニケーション能力というものは、うまく相手を騙す技術でしかありません。あからさまに相手を敵扱いにして、相手を騙しにかかれば、相手の反感を買います。だから、仲間のように見せかけて、うまく相手を騙すのです。コミュニケーション能力とは、所詮は騙しのテクニックなんだから、そのような能力の高い人間を尊敬してはいけません。そのような能力の低い人は、むしろ自分のほうがまともな人間なんだと思えばよいでしょう。
 と、そんなことを新聞記者に言ったのですが、わたしの言いたいことはうまく相手に伝わらなかったようです。わたしのコミュ力は相当に低いようですね。
 まあ、それはともかく、ここで釈迦の言葉を引用しておきます。
 《自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。それが善い言葉である。
好ましい言葉のみを語れ。それは相手に喜んで受けいれられる言葉である。相手にいやがられる言葉は避け、相手に好ましい言葉を語るようにしたほうがよい》(『スッタニパータ』四五一・四五二)
 わたしたちは、他人を傷つける言葉を平気で語っていませんか。言う必要のない言葉を慎め、というのが釈迦の教えです。釈迦は、コミュニケーション能力を高めよ、とは言っていませんよ。
  

カット・酒谷 加奈

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