天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第98号

被災地で慰霊法要、座主猊下導師で
5月11日 気仙沼市・観音寺にて、檀信徒も参加

 東日本大震災に対応するため、天台宗では四月二十七日に、第百二十二回臨時宗議会(栢木寛照議長)が招集された。議会冒頭の「お言葉」で半田孝淳天台座主猊下は「今こそ、宗徒一丸となって全力を挙げ、宗祖大師の示された『忘己利他』の心を、被災地の皆様に届ける秋(とき)」と述べられ、阿純孝宗務総長は、十一日に気仙沼市・観音寺で座主猊下大導師にて慰霊法要を営むと発表した。

 議会冒頭の「お言葉」で半田座主猊下は「今回の大震災による犠牲者、行方不明者は三万人近くにのぼっており、今なお安否のわからない人々が数多くおられることに心を痛めています。更に、何十万人もの人々が住居を失い、物資が不足する中、避難生活を余儀なくされておられますことにお見舞いを申し上げます」と述べられ、その上で「私たちの心は、被災され、打ちひしがれた皆様と共にあります。そして、助け合いながら、この大災害を生き抜き、復興しようとされている皆様と共にあります」との心情を明らかにされた。
 この座主猊下の震災犠牲者への哀悼と被災者へのお見舞いのお言葉に対し、栢木宗議会議長は「『日本は必ず復興する』『天台宗はこの悲しみを必ず乗り越えられる』という確信が涌いて参ります。今回の臨時宗議会は天台宗が、日本の再生に微力なりともその責務を果たす議会になるものと存じます。」と答えた。
 阿宗務総長は「寺院の復興はもとより檀信徒が一日も早く平常生活に戻れるよう支援方法を考えなくてはならない。今後の課題は寺院の復興と檀信徒に向けての心のケアである」と述べ、震災で親を亡くした子供たちのために「一隅を照らす運動総本部」で里親制度を考えるとした。
 被災地での追悼慰霊法要は、十一日午後に宮城県気仙沼市観音寺(鮎貝宗城住職)で営まれ、大震災が発生した十四時四十六分には黙祷が捧げられる予定。
 観音寺では、津波で檀信徒五百世帯が流され、死者・行方不明者が多数出ている。
 天台宗では、震災発生以来、災害対策本部を設け、阿宗務総長を先頭に職員が被災地に入り、救援・支援活動を続けている。また、仏教青年連盟や各教区もボランティア活動を展開している。
 この度の臨時宗議会において復興支援のため約六億円の臨時会計予算を承認したことにより、一宗挙げての支援活動の実働へ歩みを進めることになる。

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東日本大震災支援
第一、二地区臨時宗務所長会を開催

 三月三十一日、東京教区宗務所で、第一、二地区臨時宗務所長会議が開催され、東日本大震災の被災寺院・檀信徒救援について緊急協議が行われた。
 席上、天台宗社会部から災害補償制度の適用事項、義援金の寄託状況、被災者受け入れを表明している寺院数などが説明された。これを受け、板倉慈慎東京教区宗務所長から約四十ヶ寺が被災者受け入れを表明していること、被災檀信徒の就学生の下宿受け入れなどの支援策が明らかにされた。また、被災した福島教区の矢島義兼副所長からは、被害状況が説明され、宗としての支援を要請した。
 これに対し、阿純孝宗務総長が「寺院も檀信徒も壊滅的な被害を受けている。過去の災害復興支援よりも更に幅広く支援していきたい。迅速な対応と共に、長期戦を覚悟している」と決意を述べた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

奇跡はいつでも起こるのですが
気づかないことが多いのです。

河合 隼雄 元文化庁長官

 東日本大震災の被災地を歩いていて、奇跡が起こって元通りにならないか、などと考えました。
 そんな大奇跡は望むべくもないけれど、小さな奇跡ならあちこちにありました。信号が消えてしまって、交通整理する人もいない交差点では、車同士が徐行しながら譲りあって通行していました。
 原発屋内退避圏内では、美しい桜が咲きこぼれ、ウグイスが鳴いていました。
 気仙沼市では、瓦礫の中で「限定メニューですが、今日から店を開きます」と営業していたラーメン屋さん。ラーメンだけのメニューだったけど、美味(うま)かった。道の駅で見かけた、少女。乗っていた自家用車には荷物がギッシリと積まれて、もう何も乗らない状態でしたが、その腕には猫が一匹、しっかりと抱かれていました。
 放射能の恐怖にさらされながら、文字通り命をかけて活動している自衛隊、警察、消防の人たち。被災地に派遣されて二十四時間以上休むことなく働き続ける医師、看護師たち。ある被災地派遣ナースのブログにはこう記されています。
 「脈をとっていると私の手を握り返してきて『孫と同じくらいだな、看護婦さん。あったかい手だねぇ』とそのまましばらく目を閉じているお婆さん。両手を合わせて拝んで何回も何回もお礼を言うおじいさん。寝たきりなのに飛び切りの笑顔を見せて起き上がろうとするおじいさん。美味(おい)しそうに小さなおにぎりを食べる子供たち。気付けば朝トイレに行ったきりで、夜更けになっていました」。
 普段は、奇跡だ、などとは考えもしない人の好意が、奇跡であることがよく分かりました。奇跡は、あなたの心の中に起こるし、私の心の中に起こるのです。もっと多くの奇跡が被災地に起こるように祈ります。
 乗り越えよう!日本。

仏教の散歩道

「イスラーム」と「南無」

 イスラム教のイスラームという言葉は、「ゆだねる」「おまかせする」といった意味です。
 もちろん、おまかせするのは神であるアッラーに対してです。アッラーにすべてをまかせる。それが、イスラム教の本質です。
 ところで、日常生活において、わたしたちはしばしば、
 「あなたにおまかせします」
 と言います。しかし、わたしたちがそのように言う場合は、大抵、自分の希望はあるのだけれども、強引にその希望を押し通すわけにはいかずに、決定を相手に委ねなければならないのです。それで、相手におまかせはしたけれども、心の中では〈こうしてほしい〉〈こうなればいいなあ…〉と思っています。
 イスラム教の「イスラーム」も、それと似たところがあります。似ているところは、人間が強引に自分の希望を押し通せないところです。
 イスラム教徒になった以上、イスラム教の聖典である『コーラン』の命令に絶対服従せねばなりません。『コーラン』が豚肉を食ってはいけないと命じているのだから、牛肉を買うお金がないから、安い豚肉を食ってもいいでしょう…とはならないのです。自分の希望は言えないのです。
 ところが問題は、おまかせをしておいて、心の中で自分の希望を持っていてもよいか/悪いか、です。イスラム教においては、飲酒は禁じられています。だが、われわれ日本人であれば、心の中でついつい、
 〈酒が飲みたいなあ…。飲ませてくれればいいのに…〉
 と思ってしまいます。そう思うことが「イスラーム」になるか/ならないか、そこが問題です。
 実は、「イスラーム」というのは、おまかせした以上は、いっさい自分の希望を持たないことです。〈酒が飲めればいいのに…〉〈ほんの少しであれば豚肉を食ってもいいだろう〉と、自分の判断や希望を加えると、それは「イスラーム」になりません。人間の判断をいっさい放棄することが「イスラーム」の「イスラーム」たるゆえんです。
 そこでわたしは、この「イスラーム」は、仏教の「南無」に相当すると思います。つまり、南無という言葉は「おまかせします」の意味なんです。
 したがって、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏にわたしのすべてをおまかせするのです。「南無妙法蓮華経」は、『妙法蓮華経』(すなわち『法華経』)の教えにすべてをおまかせすることです。
 おまかせした以上は、自分の希望を言ってはいけません。金持ちになりたい、長生きしたい、幸福になりたい、そんな希望を持たないのが「南無」です。仮にあなたが貧乏になれば、仏があなたをそのようにされたのだから、あなたはそれに満足すべきですよね。

カット・酒谷 加奈

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